「罪を犯さないために」 出エジプト 34:4~9  ローマ 7:1~7 (2012.8.26)

◆ 罪を犯さないために(霊に従う生き方)
 罪を犯さないことが神の御心であると分かっていても、罪を犯してしまう。そこに、罪の怖さがあります。罪を犯さないようにするためには、罪ではなくこの罪をも支配する神に目を向ける必要があります。神の祝福を受けた生活が、滅びの道から身を守るってくれるからです。そこに、“霊に従う生き方”があります。

◆ 律法の支配からの自由-霊に従う
神からの付与としての律法は、イスラエルの人々(ユダヤ教徒)の信仰及び日常生活すべての規範となっています。律法から外れた行為は罪とみなされます。人々はこの律法を忠実に守ることにより、救いが与えられることを信じていました。
 しかし、律法は人の罪を明らかにするのみで救いをもたらすものではない、とパウロはいいます。人が義とされる(救われる)のは、信仰によります。<ローマ1:3>
信仰によって義とされた者は律法とその働きの下にはなく、聖霊の支配の下にあるというのがローマ7、8章での主題です。パウロはこれを結婚の比喩で語ります。
 結婚生活において律法が支配する期間は、妻の側にとっては夫が生きている間だけです。夫の死とともに、妻は律法から解放されます。つまり夫との結びつきから解放されるのです。夫の死後、他の男と一緒になっても姦通の罪には問われません。
 それをイエス・キリストとの関係に当てはめると、人は律法に死んで(解放されて)初めてキリストと結ばれるということです。この結婚の比喩は拘束性からの解放を伝えることにあります。人を縛っていた律法(文字に従う生活)から解放するのは、キリストの恵み(霊に従う生活)に与ることによります。<ローマ7:8>
 
◆ 新しい生き方への脱却-十字架の贖い
 パウロは律法の支配下にある生き方を“古い生き方”といいます。それは文字に従う生き方、つまり形式に捉われていることを意味します。それに対し、新しい生き方とは霊に従う生き方であり、律法から自由にされていることを意味します。
 エフェソ書では、この古い生き方に固執している人を古い人といっています。それはキリストを受け入れない、頑なな心を持った人です。そういう人は神から遠く離れ、抑制を知らず、無感覚のまま情欲に惑わされ滅びに向かっています。しかし、古い人を脱ぎ捨てた人は、新たにされて神にかたどって造られた新しい人を身に着けます。そういう人はキリストの教えに従って真理の内を歩みます。<エフェソ4:17~23> 「文字は殺し、霊は生かす」と聖書は教えます。<Ⅱコリント3:6>
 しかし、生まれながらの人間は本質的に肉(罪を引き起こす存在)に従って生きています。そこには自分中心にしか生きられないという人間の限界、もろさ、はかなさがあります。この罪を取り除くために、御子キリストによる贖いの業がなされました。十字架の出来事です。イエスさまの命は復活の霊として、従う者に第二の生(命)をもたらします。古い人から新しい人への歩み、それが救いの道です。

◆ イエスの支配-万人の罪の現実
この救いを得る(永遠の命に達する)のは、イエスさまの支配に身を委ね切った時です。この事実をヨハネ福音書は“姦通の女”の物語で語ります。<8:1~11>
毎日、神殿で教えておられたイエスさまの前に、イエスに敵対する律法学者やファリサイ派の人々が姦通の罪を犯した女を現場から連れて来ます。旧約律法では、姦通の罪は石打ちの刑です。<レビ記20章> 彼らはこの女をイエスがどう裁くか注目しています。もし、イエスが律法通り女を石で打てというなら、イエスは罪の赦し教えを自ら否定することになります。逆に赦せというなら、イエスは律法を無視する反社会的人物とされます。これはどっちに答えようと、イエスをユダヤ共同体社会から葬り去ることを意図した、敵対者たちの仕掛けた巧妙な罠でした。 
 これに対して、イエスさまは「罪を犯したことのない者が、まず、この女を石で打て」言われます。これは、裁く者が裁かれる立場にあることを示しています。それですべての者が女を裁くことなく、その場を去って行きました。残されたのは、イエスさまと女だけです。「だれもあなたを裁かなかったのか。」とのイエスの問いに、女は「主よ、だれも」と答えます。では、この女の人は赦されたのでしょうか。

◆ 赦しの宣言-新しい生き方への促し 
そうではありません。だれも裁かなかったということは、だれからも赦されていないということの裏返しです。真の裁きと赦しの権威、それは神にのみ属することであって、人間に人を赦す権威はありません。そして、イエスは赦しを宣言します。
 「わたしも罪に定めない。」 黙って立ち去った人々と違って、イエスさまははっきりと神の権威をもって、女の犯した姦通の罪の赦しを宣言します。これは実に大胆な言葉です。ユダヤ人から見れば、イエスは自らを神と同等の対場に置いているからです。それこそ神を冒涜する者として、石で打ち殺されかねない言葉です。しかし、イエスさまは神から遣わされた者であり、地上にあっては聖霊を受けて宣教活動をされました。その宣教の中心は罪の赦しにあります。イエスさまは、その罪の赦しの宣言に続けて「これからは、もう罪を犯してはならない。」と言われました。
 赦されることがすべてではありません。赦しの宣言は即、新しい生活に入ることへの促しとなります。人間は赦されてもすぐにその恵みを忘れてしまいます。そうならないために、人は罪を犯さない新しい生き方に切り替える必要があるのです。それが霊に従う生き方です。イエスさまの赦しの権威は、悪の支配を断ち切ります。

◆ 教会託された赦しの宣言        
この“姦通の女”におけるイエスさまの赦しにおいて、わたしたちが忘れてはならないことがあります。イエスさまはこの赦しを宣言する権威を、ご自分の命を代償として得られるということです。イエスさまの赦しは、十字架での贖いを根拠としています。そしてこの赦しの権威は、今、十字架を掲げる教会に託されています。

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