「守るべきもの」 イザヤ 48:1-8 マルコ 8:27-33 (2014.3.23)

◆ 守るべきもの-生きていく上で最低限必要なもの
引越しの秘訣は、いかに不用なものを捨てるかにあります。しかし、これはむずかしいことです。しかし、何を残すかに焦点を絞れば割と簡単。極論をいえば、生きる上で(死ぬにあたって)最小限必要なものは何か、を“残す(守る)”選択の基準とすることです。「わたしは裸で母の胎を出た。裸でそこに帰ろう。」<ヨブ1:21>

◆ 受難・復活予告-救いの迫りの宣言
では、この世で最も片付け上手な人は誰かというと、イエスさまに他なりません。イエスさまは人間が生きる上で、最も大切なものが何かをわたしたちに教えています。それは“命”です。その命とは、「死んでも生きる命」<ヨハネ11:25>です。
 この命は、神に繋がる命です。それは、人の罪が神に赦されて得られる命です。この赦しを世の人々にもたらすために、イエスさまは自ら人の罪を負って、十字架につかれました。その受難の時をイエスさまは前もって、弟子たちに予告されます。
しかし、その時を予告するタイミングがあります。それは、イエスさまが何者であるかを弟子たちが理解した時です。そうでないと、イエスさまの受難の意味が失われてしまいます。イエスさまの受難は単に受難で終わる苦しみではなく、三日後に復活するという希望の約束につながっているからです。イエスさまは人々が言うような洗礼者ヨハネや、エリヤ、預言者の一人といった神の僕以上の存在です。
 弟子を代表してペトロは「あなたは、メシア(救い主)です。」と答えました。これこそ、イエスさまが弟子に期待した応答です。この弟子たちの信仰告白の上に、イエスさまの受難と復活の予告がなされました。それは救いの迫りの時の宣言です。

◆ 預言の成就-全く新しいことの到来
しかし、イエスさまの予告を聞いたペトロは、すぐにイエスさまを諌めようとしました。それによって、ペトロ(弟子たち)の信仰告白は、まだ不完全なものであったことがすぐに露呈します。ペトロの行為は、イエスさまの言葉への不信仰・不服従を意味するからです。イエスさまは「サタン、引き下がれ。あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている。」と厳しい言葉でペトロを叱りました。
 旧約における神の民イスラエルも、神による救いの恵みを経験しながら、結局は“神のことを思わず、人間のことを思って”救いの道からはずれました。その結果、民はバビロンとの戦いに破れ、都は荒廃し、民は捕囚として連れ去られて行きます。
 しかし、神はこの背く民を憐れみ、預言者イザヤを通して都エルサレムの復興を語ります。あの強大な軍事力を誇るバビロンがペルシャのキュロス王により崩壊させられると言うのです。その時、イスラエルの人々には祖国への帰還が許されます。それは、他国で囚われの日々を送っていた民にとっては、信じられない言葉でした。 
 いまだかつてなかった全く新しいことが神によって始められます。この旧約の預言の成就は、キリストの復活という全く新しい救いの到来につながる出来事です。

◆ 守るべきもの-福音の恵み 
 弟子たちは、イエスさまの受難予告を恐れをもって聞きました。「そんなことがあってはなりません。」<マタイ16:22> とのペトロの言葉が弟子たちの思いを代表しています。弟子たちが守りたかったのは、この世でのイエスさまの栄光です。
しかし、イエスさまが来られたのは、いつかは失われるこの世の栄光ではなく、永遠に続く神の栄光を世にもたらすためです。それが、私たちの守るべき福音です。
 復活は全く新しい神による命の創造の出来事です。その復活に至るには十字架という狭い門を通る必要があります。この受難の道こそ、神の命に結びつく復活への道です。それは、「自分を捨て、自分の十字架を背負って」イエスさまに従う道です。<マルコ8:34> イエスさまと共に、受難の道を選び取るのがキリスト者です。
 パウロはこの道を歩み通すために「神は臆病の霊ではなく、力と愛と思慮分別の霊を私たちにくださった」と、弟子であり同労働者であるテモテに教えています。<Ⅱテモテ1:7> パウロは福音の使者となったために人に囚われました、しかしそれは、神の囚人とされたことであって「私は福音を恥としない」とパウロは語ります。<ローマ1:16> 福音への誇りが、私たちに守るべきものが何かを教えます。

◆ キリストに従う-証しする生活
 パウロはテモテに「あなたにゆだねられている良いものを、わたしたちの内に住まわれる聖霊によって守りなさい。」と勧めています。<Ⅱテモテ1:14> この守るべき良いものとは何でしょうか。それは、キリストによって与えられた信仰と愛、即ち、福音の喜びに他なりません。<同:13> この“良いもの”を守り通すのは容易なことではありません。この世は悪意に満ちているからです。それだけではなく、人の内にも自分中心に捉われる思い、罪が潜んでいます。だからこそ、良いもの(福音)は聖霊によらなければ守り切ることの出来ない、神の恵みといえるでしょう。
 イエスさまの受難と十字架、そして復活の予告の言葉を聞いた弟子たちは、その意味を十分に理解出来ませんでした。まだ聖霊が弟子たちの上に注がれていなかったからです。イエスさまのすべてを明らかにして下さるのは、聖霊の働きです。それは、ペンテコステ(聖霊降臨日)まで待たなくてはなりません。その日以来、弟子たちは臆病の霊を取り払われ、力と愛と思慮分別の霊に満たされて、キリストにある喜びをもちつつ、新たに信仰共同体である教会を世に形造り始めました。
 キリストに従うとは、キリストをメシアとする証しに徹する生活をいいます。

◆ 福音を恥じないように
わたしたちは、生活の中で自分がキリスト者であることを隠すようなことをしてはいないでしょうか。それは救い主であるイエス・キリストを恥じることです。イエスさまも再臨の時、そういう者を恥じると言われます。<マルコ8:26> 福音こそ、わたしたちの人生において守るべき、最良の宝です。これを誇りとしましょう。