◆ 種まきのたとえ-決断を促す
大相撲第70代の横綱にモンゴル人の日馬富士が推挙されました。大関に上がってしばらくは怪我もあってぱっとせず8勝7敗で終わった時、師匠が言った言葉。“横綱を目指せ。目指してなれるものではないが、目指さない限り始まらん。”この言葉が日馬富士を初心に帰らせ、横綱への道を切り開くきっかけとなりました。
◆ イエスのたとえの特徴-即興
このように、一つの言葉が聞いた者に決断を促し、行動へと駆り立てる場合があります。イエスさまのたとえ話には、そのような行動を引き起こす力がありました。
それは、机の上で練った話ではなく、その場にいた聴衆と共に、その場に起こっていることをその場で取り上げて、即興的に語る話だったからです。そのため、そのたとえには現実感があります。聞く者はそのたとえを自分のこととして聞き、日常的な生活の中で、もう一度自分自身に目覚め、新しい決断を迫られるのです。聞き捨てのならない、緊迫感と印象を聴衆にもたらすのがイエスさまのたとえ話でした。
また、そのたとえは天上のことを地上的な事柄で語るという意味合いもあります。たとえば、天の神の無限の赦し、その愛を伝えるために語られたのは“放蕩息子のたとえ”に登場する父親の愛でした。そこには悔い改めて帰る息子を遠くから迎え入れる父の姿を通して、罪に迷う人間を赦そうと願っている神の姿が伝えられます。
しかし、たとえで注意すべきことは、たとえの真理は一面であってそれがすべてではないということです。畑を貸し与え、収穫を求める主人の僕を次々に殺し、ついに主人の息子まで殺す“農夫のたとえ”では、神に逆らう者の裁きが厳しく語られます。このように、一つのたとえが、真理のすべてではありません。一つのたとえの限界がそこにあります。イエスさまの一回限りのたとえを聞いて(読むのではない)、日頃の常識の世界から覚醒すること、そこにたとえを聞く意味があります。
◆ 種まきとたとえ-背景
さて、“種まきのたとえ”です。
ガリラヤ湖畔にいたイエスさまの周りには、話を聞こうと大勢の人々が群がっています。ついにイエスさまは、押し出されるようにして湖に小舟を浮かべ、群衆に相対してその舟に座りました。晴れ渡った良い天気です。群衆の後方には、一人の農夫が畑で種まきをしているのが見えます。農夫は手につかんだ種を大雑把にバラバラとまいています。イエスさまはこれを見て、種まきのたとえを話し始めました。
畑とはいっても、そこには畑を通る踏み固められた道があります。部分的には石っころばかりのところもあります。また隅の方には茨の茂っている場所もあります。
もちろん、良く耕された畑が大部分ですが。ともかく、農夫はそんなことはお構いなしに、進む方向に種をばらまいています。それは、だれもが見ており、知っている農作業でした。このたとえでイエスさまは、何を教えようとされたのでしょうか。
◆ たとえの意味 ①
イエスさまはまず、一般の群衆に向かって話をしています。種は神さまの御言葉です。そして、まかれた地は人の心です。踏み固められた道とは、頑なな心の持ち主です。聞いても聞かず、見ても見ずです。種がまかれても芽が出る余地はありません。その内、烏でもやって来て食べてしまうでしょう。石っころだらけの地に落ちた種はどうでしょう。土は石地の表面を僅かに覆っているだけです。折角、芽を出しても根を張るところがありません。昼の熱い太陽に照らされてすぐに枯れてしまいます。これは信仰が深く根づいていない人のことです。迫害に遭えば、すぐにその信仰を放棄します。茨に転がった種は、首尾よく芽を出し、根を張ることも出来ました。しかし、すでに他の多くの雑草が伸びていて、まかれた種はある程度以上成長できず、結局は実を結ぶことは出来ません。それは、最前ではなく、次善を優先すように優先順位をわきまえない人です。キリストの教えも世の教えもいっしょくたにしているので、本当の真実を知らないままで終わってしまうのです。
しかし、良く耕された地は水はけも空気の通りも良く、実を結ぶには最適です。その地にまかれた種は30倍、60倍、100倍の実を結び、多くの祝福を受けます。
◆ たとえの意味 ②
このたとえの第一の教えは、御言葉に忠実に従う者はその人に応じて豊かな祝福を受けるということです。このたとえを聞いた者は、“わたしの心は、道端かな、石地かな、それとも茨かな、もっと心を耕さないと、と思ったことでしょう。
さぁ、これは一般向けのお話です。このたとえには、また別の、もっと深い意味があります。それは、イエスさまの弟子に向けられた“たとえ”だということです。
イエスさまの福音宣教の働きによって、多くの人たちが弟子となりました。しかし、イエスさまの活動を快く思わない人たちも多くいます。熱心なユダヤ教徒たちは、厳しい(表面的な)ユダヤ教の教えや習慣から逸脱したように見えるイエスさまを迫害し始めています。そのために、まさに石地に落ちた種のようにイエスさまから離れて行く者も出て来ました。そういう人たちへのメッセ-ジが、この“種まきのたとえ”です。世には堕落した知性、表面だけの従順、雑多な誘惑など、実を実らせない不毛の土地が満ち溢れています。しかし、それがすべてではありません。実を結ぶ良い地を神は用意しておられます。それは御言葉を理解し、受け入れ、また確保しようとする良い聞き手です。このたとえは、実を結ばせて下さるのは神であって、迫害の中にあっても実りは必ずある、という励ましを与えるものです。
◆ 今あるものから始めよう
イエスさまは「収穫は多いが、働き手が少ない」と言われました。わたしたちは、条件がすべて整ってから“何か”を始めようと思っています。そんな必要はありません。今持っているもの、置かれたところ、そこから信仰の冒険が始まります。