◆ 呼びかける声(先駆者)
何事においても、本命が登場する前にその先駆けとなる者が登場します。それは、後に続く者への道備えとなると共に、人々にその道がどういう道かを予め知らせる役割を果たします。先駆者となる者の活躍が素晴らしければ素晴らしいほど、後から来る者への期待がさらに高まります。そのクライマックスがクリスマスです。
◆ 新約の幕開け-キリストの到来
イエス・キリストの誕生は、旧約時代の人々が長く待望していたメシア(救い主)到来を告げる新約時代の幕開け、時代を区分する画期的な出来事でした。この人間世界の歴史を新たにするキリストに先駆けて登場したのが、洗礼者ヨハネです。
ヨハネはこの救い主キリストを人々に紹介する旧約最後の預言者といえます。そして旧約聖書の預言は、キリストを迎える道備えをする者として登場するヨハネについても言及しています。すなわち、「呼びかける声がある。主のために、荒れ野に道を備え わたしたちの神のために、荒地に広い道を通せ。(荒れ野で叫ぶ者の声がする。主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ。)」<イザヤ40:3(マルコ1:3)>
ヨハネの叫びは、主を迎える備えのためです。今や、人間の罪に対する神の裁きは過ぎ去り、罪に倍する報い(赦し) を世にもたらす方が来られるからです。<イザヤ40:1> イザヤはその方について、彼は神の力を帯びて来られ、神の御腕をもって世を統治されると預言します。また、彼によって召しだされた者は彼の御元に従い、それがその方の働き(救い)の実となると語ります。何よりの祝福は、その方は良い羊飼いとして群れを養われる方となられるということです。<同:10-11>
◆ 先駆者-洗礼者ヨハネの役割
マルコ福音書は、この救い主の誕生に先駆けてユダの荒れ野に現れた洗礼者ヨハネについて記します。神は聖書を通して、救い主の到来を丁寧に伝えています。まず、長い時間をかけ多くの預言者によって救い主の到来を告げ、さらに時が満ちてその方が世に来られる直前、直接その方を人々に指し示す先駆者を用意したのです。
ルカ福音書によれば、その先駆者とは老祭司ザカリアと老エリサベトとの間に生まれるヨハネです。彼はイエス・キリスト誕生の半年前に生まれます。彼は母の胎にいるときから聖霊に満たされていた、生まれながらにしてのナジル人(神に献げられた人)です。彼はイスラエルの多くの子らを神に立ち帰らせ、備えのできた民を主(キリスト)の前に用意する者となります。彼こそキリストに先駆ける者です。
彼は霊と力に満ちた、神の前に偉大な人ではありますが、救い主ではありません。彼の役割は、逆らう者を神に立ち帰らせ、水で洗礼を授けることです。しかし、神が彼に託した最大の使命は、彼の後から来られる方を人々に指し示すところにありました。ヨハネはキリストが神の子として来られることを、その授ける洗礼の仕方の違いによって語ります。自分は水で、彼は霊で洗礼を授ける。<マルコ1:8>
◆ 神の救い-永遠の命への約束
この水と霊の違いは、悔い改めの洗礼が繰り返しを必要とするものか、一度限りのものかにあります。それは神に献げる備え物に似ています。旧約時代、神に罪を執りなすために大祭司は毎年繰り返し神殿で犠牲を献げました。しかし、この罪の執り成しは、イエスさまがただ一度、十字架にご自分を献げたことで完了します。
そこに人間(の業)と神(の業)の違いがあります。神の救いは、御子を世に遣わすことで実現しました。つまり、イエス・キリストは神の御手を離れ、人として世にお生まれになります。しかし、その生涯は十字架の最期に至るまで、聖霊に満たされました。神の権威に支えられたイエスさまの命は、十字架で死んでなお、復活の命として甦ります。神の救いは、キリストの誕生から死、そして復活、さらにキリストの再臨に至って完成するという、人智を超えた遠大な計画の下にあります。
キリストの誕生は、その内にすでに死を含んでおり(わたしたちの命も同様)、かつ死を超えるもの(ここがわたしたちと違うところ)でもあります。むしろ、その死からの復活の命の来臨こそ、神が備えた大胆な恵みの約束といえます。クリスマスの真の喜びは、はかない命が永遠への命に結びつくというメッセージにあります。
◆ ヨハネの呼びかけ-“救い主を待ち望め”
先駆者としてのヨハネの荒れ野における叫びは、今も罪深い世にあるわたしたちに、恵みの主である“救い主を待ち望め”と呼びかける声として響いています。
詩編85編は表題に帰還の約束とありますが、クリスマスの恵みに合い通じるところがあります。神は「御自分の民の罪を赦し 彼らの咎をすべて覆ってくださいました。怒りをことごとく取り去り 激しい憤りを静められました。」<85:3,4>
かつて、神の民として救い出されたイスラエルの民は、その真の神の恵みを忘れ、偶像(自分の好む力)に依り頼むという罪を犯しました。その罪ゆえにイスラエルは、亡国という厳しい裁きを神から受けることになります。その苦難の中で、民は神に立ち帰り「主よ、慈しみをわたしたちに示し わたしたちをお救いください。」と祈ります。この祈りを神は聞かれました。神の裁きは、御自分の民が愚かなふるまいに戻らないための愛の戒めです。神の慈しみに生きる人々には「平和の宣言」が用意されています。この詩編にはクリスマスにふさわしい言葉が残されています。
「慈しみとまことは出会い 正義と平和は口づけし 主は必ず良いものをお与えになり 私たちの地に実りをもたらす。」<同:11-14> クリスマスは,神の実りであり正義である方、キリストの栄光がわたしたちの上にとどまる喜びを確認する時です。
◆ 呼びかける声に聴き従おう
世はわたしたちの心を惹く誘惑の声に満ちています。そういう中で、ヨハネは声高らかに、人知れずひっそりと生まれる救い主の誕生を心から迎え入れるよう、呼びかけています。この声をわたしへの語りかけとして今日、共に聴き入れましょう。