「風を叱るイエス」 ヨナ書 1:9-2:3 マルコ 4:35-41 (2014.3.2)

◆ 自然災害-人間の知る限界
 昨年の夏は豪雨が伊豆大島等に大きな被害をもたらしました。この冬は山梨県や埼玉県の一部が豪雪となり、何箇所かが孤立しました。27日(木)、種子島で打ち上げられた気象衛星は、台風などの雨量をも予測可能で、今後の予報はより詳しい情報をもたらすことが出来るそうです。しかし、災害そのものはなくなりません。

◆ イエスの支配-被造物全体(人間・自然)
自然にせよ、人の世にせよ何かを支配する(治める)にはそれだけの力が必要です。しかし、支配という言葉からは暴力的、理不尽といった印象を受けます。予想をはるかに上回る自然災害はまさに暴力的です。また、アフリカのルワンダで起きた内乱では、短期間で百万人もの虐殺が行われたと聞きます。予測不可能な自然災害は受け入れるしかありませんが、人的災いは人間自身が引き起こす災害です。その根源にあるのは、自分達の利益を優先する罪にあります。人間は一時にすぎない支配欲を満たすために、他に災いを引き起こしてきました。それが人間の歴史です。
人間も神による被造物の一つにすぎません。それゆえに、人間の支配欲が神の秩序を犯すならば、自然災害だけでなく人災も起こります。だからこそ、この世を支配しているのは人間ではないことを、今一度、人間はわきまえるべきでしょう。
聖書は「被造物は、神の子たちの現れるのを切に待ち望んでいます。」と語ります。<ローマ8:19> それは神の国、つまり神の支配する時です。神の支配の源は愛にあります。その力は、終末において被造物全体に抑圧ではなく解放をもたらします。それゆえ、わたしたちは終末を待ち望みます。イエスの到来は終末の前触れです。

◆ 神の支配-逃れられないヨナ(三日三晩大魚の中) 
さて、人の世に対する神の支配の根本にあるのは愛(憐れみ)です。それはイスラエルの民に与えられた特権でした。それは、この民を通して世のすべての民が神の恵みに与るために授けられた恵みであって、特権は一民族の占有物ではありません。
 しかし、イスラエルの預言者ヨナはこれを理解しようとしませんでした。ヨナは神からニネベという大きな都へ行って、「あと40日すれば、都は滅びる」と預言するよう命じられました。<ヨナ3:4> それは、ニネベに対する神の憐れみです。ヨナの預言の言葉を聞いて悔い改めるならば、ニネベの町は神の怒りから免れます。
 ヨナは神の言葉を語る預言者であるとともに、愛国者でもありました。神の恵みが他国に及ぶことはおもしろくありません。まして、ニネベはイスラエルにとって脅威をもたらす大国です。滅びることは願っても救いを語るなどとんでもないことです。それで、ヨナは神の目の届かないところへと、ニネベとは正反対のタルシシュへ行きの船に乗り込みました。しかし、船は嵐に遭遇し難破しそうになります。
 結局、ヨナが難船に原因していることが分かり、彼が海に投げ込まれることで風は止みました。神はヨナを大魚に飲み込ませ、彼は三日三晩魚の腹の中にいます。

◆ イエスの支配-嵐を静める(自然をも支配する権威)
このヨナの物語においては、この世の全て(人・自然)に対する神の主権が語られています。全ての被造物において、神の支配は絶対です。これを悔い改めて受け入れた時、ヨナは陸に吐き出され、再度預言者としてニネベへの宣教に向かいました。
 この神の絶対的権威をもって世に遣わされたのが、神の御子イエス・キリストです。イエスさまは、弟子たちと共にあちこちの町や村をまわり、神の福音を宣べ伝えました。それは、単に言葉による教えだけではなく、具体的な悪霊追い出しや病の癒しの業として、弟子たちの前で行われます。弟子たちは確かにイエスさまの内にあるただならぬ権威を何度も目の当たりにしました。しかし、弟子たちがイエスさまを真の神の子と信じるようになるのは、ずっと後のこと、イエスさまが復活してからのことです。それまで弟子たちの信仰は、十字架に至るまでに揺れ動きます。
 その弟子たちの信仰の揺れはガリラヤ湖を舟で渡ろうとする際、嵐に遭遇した時にも明らかになりました。パニック状態の弟子たちは、艫の方で枕をして眠っているイエスさまを起こし、怒りと恐怖の声で叫びます。「先生、わたしたちがおぼれてもかまわないのですか。」<マルコ4:38> この信仰の揺れは、即ち私たちの姿です。

◆ イエスの訓練-弟子と共に(恐れを畏れに)  
イエスさまは風を叱り、湖に向かって「黙れ、静まれ」と命じられました。すると風はやみ、凪が訪れます。そして弟子たちに言われました。「なぜ怖がるのか。まだ信じないのか。」イエスさまには、癒しや自然をも支配する権威が備わっています。
どういう状況であれ、イエスさまがおられるところには絶対的平安があります。では、わたしたちはどのようにしてイエスさまの臨在を知ることができるでしょうか。それがいつでも確かめられれば安心出来る、とわたしたちは思っています。
 しかし、わたしたちはイエスさまの業を弟子たちのように既に見ているのです。弟子たちは、イエスさまが共におられること以上に、舟を襲う風を恐れてしまいました。それは、イエスさまの権威を見ていたにも関わらず、見ていなかったということです。わたしたちが遭遇する最大の信仰の嵐は、イエスさまの十字架・死です。
 しかし、イエスさまはこの十字架の死から復活されました。つまり、イエスさまは死に勝利されました。ここに私たちの信仰の原点があります。この世で嵐がどのように吹くかは、私たちには分かりません。しかし、イエスさまが共におられることを信じて疑わないなら、私たちが遭遇する恐怖は神への畏怖に変えられます。

◆ 奇跡ではなく、奇跡の主を見よう
「黙れ、静まれ」とイエスさまは荒れ狂う湖に命じられました。そして凪が訪れました。とかく私たちは静まった湖だけを見て(奇跡)、その奇跡を起こされるイエスさまを見失ってしまいます。見るべきは、そのような不信仰な者に常に救いの手を差し伸べて下さる、十字架から復活されイエスさまです。奇跡の主を見ましょう。

コメントは受け付けていません。