「力ある祈り」 列王記下 4:32-37  ヤコブ書 5:13-16 (2014.2.23)

◆ 祈り-魂を解放する
オリンピックに出場して、金メダルを取れるのは一握りの選手です。勝利の冠を得るために選手は自己節制し、自己訓練をしています。本番の中でプレッシャーに押しつぶされる者、それを乗り越える者、実力以上の力を発揮する者等様々です。競技に当たって必要な事は魂が解放されていることでしょう。その秘訣は祈りです。

◆ エリシャの癒し-死に新たな命を与える祈りの力
この祈りを自分に向けると、それはプレッシャーとなります。つまり、自分の願いが適うようにとの枠を自分にはめてしまうからです。その祈りは、自分を拘束するものとなります。聖書は、祈りは神に向けるものであることを教えています。
今日の旧約聖書箇所、列王記下4章ではエリシャの奇跡物語が記されています。その奇跡とは、病気の癒し(死を甦らせる)です。この物語は一人のシュネムの裕福な婦人とエリシャの関わりの中で起こった出来事です。エリシャはお世話になっている婦人に、男の子が授かることを約束します。(彼女が望んだわけではない)その男の子は大きくなったある日、父親が刈り入れ作業をしていた時、突然熱を出して死んでしまいました。婦人はエリシャのところへ行き、息子の死を告げ、訴えます。エリシャの執り成しの祈りによる息子が、死んでしまった。この婦人の深い悲しみを知ったエリシャは婦人の家へ行き、死んだ子と対面します。そこでエリシャは、まず、神に祈を献げました。<4:33> この祈りが新たな命を呼び起こします。
 イエスさまも、ラザロの死を確認してからラザロを起こしに(甦らせる)行きました。その癒しも、天を仰ぐ(神に祈る)ことからが始まります。<ヨハネ11:41>

◆ イエスの癒し-罪を赦す権威 
 エリシャやイエスさまの癒しの業や、死に新たな命を与える力は、共に神の霊から来ています。とくに、イエスさまの場合、癒しは罪の赦しと深く関わっています。
 それは中風の人の癒しにおいて、具体的に語られました。<マルコ2:1-12,他>
中風を患う人の友人4人が、病人の癒しを願って彼をイエスさまのところに連れて来ます。その家は大勢の人で一杯だったため、彼らは病人を屋根をはがした穴からつり下ろしました。異常な光景です。それほどまでして、イエスさまからの癒しを執り成す彼らの信仰を見て、イエスさまは中風の人に宣言しました。「子よ、あなたの罪は赦される」<マルコ2:5> 何かその場にそぐわない、不思議な言い様です。
 イエスさまの宣言は、罪の赦しであって、病気の癒しではありません。この場面で、イエスさまがユダヤの伝統に深く根付いて生きていたことが分かります。つまり、ユダヤ社会では病気は罪が原因している、という考えです。(病に苦しむヨブに対する友人たちの考え) それと同時にイエスさまは中風の人の癒しを通して、御自分にとって、罪を赦す権威と病気を癒す権威が同じであることを、その場に居た人々に現されました。「起きて、床を担いで歩け」これはユダヤ教の枠を超える癒しです。

◆ 癒しの本質-魂の解放
このように、中風の人の癒しにおいて、わたしたちはイエスさまの癒しの本質をみます。それは、ユダヤの伝統的理解である罪と癒しの密接な繋がりを超えるイエスさまの癒しの権威についてです。イエスさまにとって、癒しは単に病気の回復だけを意味するものではないのです。病気が治ったとしても、そこに魂の平安がなければ、真の癒しとはなりません。逆に、病気そのものが直らなくても、魂に安らぎが得られるなら、そこには確かな癒しがあるということです。つまり。魂という人間の存在そのものが神に向かうとき、人は安らぎを見出します。それが解放です。
 癒しには風邪が治る、虫歯が治るというような一時の癒しと、死からの解放という永遠の命に繋がる癒しがあります。エリシャは病気で死んだ子を癒し生き返らせましたが、いずれその子はまた死ぬ時が来るでしょう。それに対し、イエスさまの癒しは罪の赦しと深く結びついています。罪の赦しとは、神のもとに帰り、永遠の命を得ることを意味します。それは、病気そのものをも包み込む癒しとなります。
 十字架は心身の痛みの極みの経験といえます。イエスさまの罪を赦す権威を認めない人々はイエスさまを十字架につけます。しかし、神は死からの解放を告げます。

◆ 正しい人(教会)の祈り-「主の名によって」  
それは、イエスさまの復活という出来事によります。イエスさまは正しい人(神に忠実に従う人)として十字架で死なれました。それはまた、人間の罪を神に執り成す神の子としての使命でもありました。イエスさまの言動の基盤は神への祈りです。
 教会を教会足らしめているのは、この正しい人であったイエスさまの死、そして復活です。イエスさまの権威を教会は授かっています。それゆえ、洗礼や癒しや悪霊追放といった教会のあらゆる業には、「主の名」による祈りが伴います。<ヤコブ5:14> それは人間の力とは違い、教会に連なる正しい人にも賜る神の権威です。
 わたしたちはこの“主の名によって祈る”ことの意義の深さをより深く知る必要があります。それは、祈る者の行為の中に、神御自身が直接介入されることを求める祈りだからです。正しい人(キリストに忠実に従う者)は、「キリストに対する信仰ゆえに、確信をもって、大胆に神に近づくことができます。」<エフェソ3:12>
 キリスト者にとっての信仰は、あるかないか、のどちらかです。たとえ、からし種のような信仰であっても、疑わず信じるなら山をも動かすとイエスさまは言われました。<マタイ17:20> 神に不可能はないと信じる者の祈りには力があります。

◆ 祈りと賛美を絶やすことなく
ヤコブ書は、「苦しんでいる人は、祈りなさい。喜んでいる人は、賛美の歌をうたいなさい。」と教えています。<5:13> 人は、苦しい時は神に祈ります。が、喜びの時は神に向かうことを忘れがちです。力ある祈りとは、どういう状況であれ、神に向かう(祈る)ことを絶やさない祈りから生まれます。常に大胆に祈りましょう。