「語り続けよ」 イザヤ 41:10 使徒言行録 18:5-11 (2014.2.9 教会創立記念礼拝)

◆ 教会創立記念礼拝-過去・現在・未来
今朝、当教会は創立43周年記念礼拝の時を迎えています。43年前、この地は一面の田んぼで、急激に家が建ち始めた様子が、当時の写真で見て取れます。その頃、私は20歳で教会とは全く無縁の生活をしていました。皆さんは、どうでしょうか。それぞれの信仰の歩みにおいても過去があり、現在があり、未来があります。

◆ 主題聖句-「語り続けよ」
今年度(2013年度)の教会主題聖句は「」恐れるな。語り続けよ。黙っているな。わたしが共にいる。・・・この町には、わたしの民が大勢いるからだ。」です。<使徒18:9-10> その中でも、今朝は「語り続けよ」という言葉を取り上げています。
 人間社会の中で、命に関わる本当に大切な事柄は、人づてに語り継がれてきました。特に災害に関わることなどはそうです。単なる迷信ではなく、そこには経験によって積み重ねられた知恵があります。しかし、最近では災害が起こる度に被災者の声として、“今まで見たこともないようなとか、経験したこともないような”という言葉をよく聞きます。当事者になってみて、始めて味わう恐怖や不安や絶望です。
 そこで思い起こすのは“ノアの洪水”の聖書物語です。<創世記6~9章> ここでは世界的規模での洪水が全地を覆い、すべてものが滅び去りました。ただ、神の命令に従って大きな舟を造り、その舟に乗り込んだノアとその家族、あらゆる一対の動物だけは命長らえます。物語において、神は再度、人間への祝福を約束します。
 教会が語り伝えてきたのは、この神による命の再生と、それをもたらすメシア(救い主)としてのイエス・キリストです。語り続けられるのは、この方のことです。

◆ コリント伝道における証し-「メシアはイエスである」 
使徒言行録18章ではコリントの町でのパウロの宣教の様子が語られます。その宣教の核心となっているのは、もちろん、この方イエス・キリストに他なりません。
 この町には、ローマから追放されたユダヤ人アキラとプリスキラというキリストを深く信じる夫婦がいます。アキラはパウロと同業の天幕造りを職業としています。パウロは彼らを訪ね、その家に住み込んで共に仕事をし、安息日には会堂でユダヤ人やギリシャ人と論じあっていました。コリントは繁栄した町で雑多な人がいます。
 この地に、同労者であるシラスとテモテがマケドニヤ州からやって来て、パウロと合流しました。そこでパウロは、御言葉(福音)を語ることに専念することになります。特に同胞であるユダヤ人に対しては、「メシアはイエスである」と力強く証ししました。パウロにとっては、同胞が救われることが何よりの願いです。それは、かつてパウロ自身が福音に触れることによって、狭い凝り固まったユダヤ教の教えから解放された経験があるからです。救い主であるイエスを伝えることがパウロにとってのライフワーク、イエスさまから直接与えられた生涯をかけての使命でした。
 イエスさまによってもたらされた福音の恵みは、万人にとっての救いの言葉です。

◆ 異邦人伝道-「今後、わたしは異邦人の方へ行く」
 しかし残念なことに、パウロの証しをユダヤ人たちは聞き入れないどころか、反抗し、口汚くののしりました。そこでパウロは彼らとの訣別のしるしとして、服の塵を振り払って、「あなたたちの血は、あなたたちの頭に降りかかれ。わたしには責任はない。」と言います。これは、パウロのユダヤ教との断絶を宣言する悲愴な覚悟を表す言葉です。キリストを拒む者に救いはないことを彼自身がよく知っています。
 同胞であるユダヤ人への説得が失敗した後、パウロは「今後、わたしは異邦人の方へ行く。」とその宣教の対象を異邦人に向けることになります。ペトロに与えられた使命は同胞ユダヤ人への宣教ですが、パウロは異邦人に向けての独自の宣教路線を歩み始めます。しかし、それはパウロが自分で決定したというより、神の御心(計画)が働いていたということがいえるでしょう。それは、神が夜の幻の中で、上記の教会主題聖句の御言葉を告げているからです。パウロは、コリントという異邦人の町で、異邦人のために、一年六ヶ月の間留まって、神の言葉を教え続けました。    
 人によって、伝道の対象が違ってくるという事実をこの記事はわたしたちに語っています。誰にではなく、何を伝えるかが伝道の大きな課題ではないでしょうか。

◆ 当教会の務め-「恐れるな。語り続けよ。黙っているな。」 
このパウロのコリント伝道を通して、今、当教会は何を教えられるでしょうか。
一つは、パウロの弛むとこのない伝道の熱意です。彼は仕事をしつつ、安息日毎に会堂で語り合い、信仰を証ししています。二番目には同胞愛です。イエスの福音によって同胞が救われることを彼は心から願っています。三番目には、福音を拒否する同胞に執着せず、神を知らない異邦人にこれを伝えていることです。一言で言うと、パウロはイエス・キリストにあって真に自由に伝道しているということです。
 現実的には、パウロほど伝道において労苦を味わった者は少ないでしょう。しかし、パウロは、伝道の始まりとその過程の要所々々で幻を与えられています。キリストとの出会いにおいて<使徒9:4~>、マケドニアの人々からの招きにおいて<同16:9~>、コリントでの伝道において<同18:9,10>、エフェソでの長老たちとの別れにおいて<同20:23>・・。ただ、どのような未来が待ち受けていようとも、パウロには「主イエスからいただいた、神の恵みの福音を力強く証しするという任務を果たすことができさえすれば、この命すら決して惜しいとは思いません。」<同20:24>という揺るぎない確信があります。神が共におられるという確信です。

◆ この地にあって、福音を力強く証ししよう
当教会は、今、教勢面において非常に厳しい現実の中におかれています。しかし、教会においての現実とは、神が共におられるというところにあります。「恐れるな、たじろぐな、わたしは勢いを与える」と神は私たちに語りかけておられます。<イザヤ41:10> この地にあって、共に神を信頼し、福音を語り続けていきましょう。