「愛に根ざす生活」 歴代誌 7:11~16, エフェソ 3:14~21 (2012.9.23)

◆ 魂の牧者の下に憩う(上に立つ人々)
わたしたちは、家庭で、職場で、学校で等、今置かれているところで、心から憩える場所、あるいは人を持っているでしょうか。聖書はどんな人であっても、等しく憩えるところの所在を教えています。それは“魂の牧者の下”です。ここには、限りない愛と恵みがあります。わたしたちの命の再生の力は、ここから始まります。

◆ 偽りの指導者-バビロンからの帰還(神の裁きの赦し)
「その日、その時には、イスラエルの人々はユダの人々と共に、泣きながら来て、彼らの神、主を尋ね求める。」とのイスラエルの帰還預言が、エレミヤによって語られます。<エレミヤ50:4> 捕囚の地、バビロンから祖国への喜びの帰還です。
 ユダの人々がエルサレムの神殿を破壊され、バビロンに捕囚として連れて行かれたのは前587年です。それから約50年後、ペルシャのキュロス王によって祖国への帰還が承認されました。それは、ユダの犯した罪が神から赦しを受ける時です。
 神にとって南のユダの民(北のイスラエルの民も)は、迷える羊の群れでした。しかし、この羊の群れを迷わせたのは羊飼いたち、つまり国の指導者(王や宗教的指導者)たちです。偽りの指導者(牧者)たちは、民(羊たち)を迷わせ、山の中を行き巡らせ、憩う場所を与えませんでした。指導者たちは、真の神から離れ、偽りの神・偶像礼拝にふけるようになったのです。その結果、イスラエルの北王国はすでにアッシリアに滅ぼされ、南王国の多くの人々はバビロンに連れ去られました。
 時至って神の裁きの期間が終わり、神の赦しが、民にバビロンからの帰還を促します。それは、民が偽りの指導者から解放され、神に立ち返る機会となります。

◆ 真の指導者-魂を生き返らす(欠けを満たす)
このイスラエルにおける偽りの牧者に対して、真の牧者を讃えて歌っているのが詩編23編です。これは詩編の中で最も人々に親しまれているものの一つです。羊飼いは「羊を青草の原に休ませ、憩いの水のほとりに伴い」ます。<詩編23:2> 羊を養い育て、安全を見守る羊飼いの下で、羊は安心して憩います。この詩編の中で、羊飼いは、人間の魂を生き返らす真の牧者である全能の神に例えられています。
真の牧者に導かれる者たちは幸いです。彼らには何も欠けることがありません。
たとえわたしたちが死と間近かに直面したとしても、牧者である神が共におられるので、災いを恐れることは少しもありません。神はわたしたちが行くべき道を、鞭や杖といった具体的な促しをもって導かれます。いよいよ戦いが迫って来た時にも、神は神と共なる食卓を整えて、戦いの備えをしてくださいます。頭に香油を注ぎ、杯を命で満たし、わたしたちが神にとって価値あるものとしてくださるのです。神はこの深い配慮をもって、わたしたちの命ある限り、恵みと慈しみを注いでくださいます。それゆえ、わたしたちは真の牧者の下に帰り、生涯、そこにとどまります。
 このように、詩編は真の牧者なる神への、感謝に満ちた信仰告白で満ちています。

◆ 真の牧者-群れの先頭に立つ(名を呼び集める)
さてこの詩編23編で讃えられている真の牧者こそ、わたしたちにとってはイエス・キリストそのものです。イエスさまはご自分を指して、「わたしは良い羊飼いである。」と宣言されました。羊飼いは、自分の羊の名を呼び集めて門の外に連れ出します。そして羊の先頭に立って行き、羊は名を呼ぶ羊飼いの後について行きます。
 良い羊飼いに導かれた羊は幸いです。良い羊飼いは、自分の羊を守るためには自分の命をも捨てるからです。しかし雇人の羊飼い(悪い羊飼い)は、自分の身に危険が迫ると羊を置き去りにして逃げてしまいます。彼は羊より自分が大事なのです。
 群れの先頭に立つということは、群れを正しい道に導くと共に、自分が危険の矢面に立つということを意味します。それは、従う者を命に至る真の道へと導くためです。そのために牧者であるイエスさまは、実際に命を捨てます。羊を狙う狼ではなく、敵対者たちがイエスさまの命を狙っています。しかし、イエスさまが命を捨てるのは、新しい命を得るためです。その命(復活の命)が、従う羊たち(弟子たち)に注がれる時、彼らは新しい命を得ます。そこに魂を生き返らす源があります。
 イエスさまは囲いの外にある羊にも配慮し、置き去りにすることはありません。

◆ 1真の自由人-世の制度に従う(神の僕として)
命懸けで羊を守る良い羊飼いとしてのイエスさまは、実際に囲いの内外にいる羊に真の命を与えるために、十字架につかれました。なぜ、そこまでするのか。それは、羊飼いである牧者が、弱い羊(人間)に対して無限の愛を持っているからです。
 真の命、それは“死んでも生きる命(永遠の命)”です。<ヨハネ11:25> この命に生きる者は、もはや世のしきたりに捉われることはありません。何によっても束縛されることのない自由を得ているからです。では、この自由とは何でしょうか。
 Ⅰペトロの手紙において、イエスさまを信じて神の僕とされた者の生き方が示されています。<2:11~25> ここでは、この世にあってキリスト者は仮住まいの身であるゆえに、肉の欲を避けるようにと勧められています。イエスさまに従う生き方そのものが神を証しするからです。それは、人間の立てた制度に従うことでもあります。どんな場合にも善を行うこと、それが真の自由であり神の御心に適うことです。それはどんな立場にある者(皇帝・一般人・召使等)にもいえることです。
 罪人の罪を担って十字架につくことで、イエスさまは魂の牧者となられました。
この牧者の下に憩うこと以上の平安は世にはありません。真の自由があるからです。

◆ イエスさまの実践に倣おう        
イエスさまは「ののしられてもののしり返さず、苦しめられても人を脅さず、正しくお裁きになる方にお任せになりました。」<Ⅰペトロ2:23> 神にすべてを委ねているイエスさまの行動は、十字架に至るまで愛に満ちています。このイエスさまに倣うことで、わたしたちの行動は自己義認の罪から脱することが出来ます。