「命の水の湧き出る所」 ミカ4:1~7、ヨハネ4:7~26

◆ 命の水の湧き出るところ(天のエルサレム)
人間(生き物)にとって生きるということは、命のある限り自然な欲求です。無意識の内に命への渇望があります。普段は気が付かないだけで、何かの拍子にそのことを実感する時があります。この命は愛という言葉にも置き換えることができます。人は愛を失うと、魂がひからびてしまいます。その命(愛)の根源を尋ねます。

◆ その日-真の平和の訪れ(終末) 
 人は一人では生きられない存在です。それにも関わらず、人の世に争いが絶えません。それは、本質的に人間の生きるという欲求が自分中心、自己本位なものだからでしょう。それを聖書は罪といいます。神の存在が人間の有るべき姿を示します。
 人間にとっての理想は、争いのない平和な世界の実現です。しかし、現実は平和から遠く隔たっています。地球上のどこかで、「戦争の騒ぎや戦争のうわさがあり、民は民に、国は国に敵対し、ほうぼうに地震があり、飢饉が起こっている。それが終末の徴であり、産みの苦しみの始まりである、とイエスさまは言われます。「だから慌ててはいけない。そういうことは起こるに決まっている。」<マルコ13:7~8>
 しかし、キリスト者にとっての終末は、単なる恐怖ではありません。それは、キリストの再臨を通して神の国が完成するという希望を前提としています。終末は絶望的に暗い人間の未来図ではなく、神による真の平和が実現する時なのです。
 この終末における平和の訪れを、旧約聖書は美しい言葉で預言しています。「彼らは剣を打ち直して鋤とし 槍を打ち直して鎌とする。国は国に向かって剣を上げず もはや戦うことを学ばない。」<ミカ4:3> 「その日」は、信仰において真実です。

◆ 渇き-渇きを満たす申し出 (愛)  
この真実をこの世にあって具現化されたのが、イエス・キリストです。イエスさまは神の国(の平和)の到来について、ご自身の命をもって教えられました。そこに人間の救いがあるからです。ではイエスさまはこれを誰に向かって教えられたのでしょうか。 イエスさまは「わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」<マルコ2:17> と言われます。世のすべての人は罪人です。つまり、イエスさまメッセージは、世のすべての人に向かっているものなのです。
 サマリア近くのシカルの井戸端でであった女も、イエスさまの真実(愛)に触れた一人です。彼女は人出の全くない昼日中、この井戸に水を汲みに来てイエスさまと出会う幸いを得ました。もっとも、それは「水を飲ませてください。」というイエスさまからの声かけがきっかけです。その女も真の救いを必要とする罪人でした。
 しかし、彼女はイエスさまに対して冷めた応答をします。何でわたしに頼むのか。それは、彼女が人を拒絶していたことと、イエスさまがユダヤ人であったからです。
女は5回結婚し、今は同棲中です。その人目をはばかる状況の中に、イエスさまは、愛の飢え渇きを見て取られたのでしょう。その渇きを満たそうと言われます。

◆ 礼拝-特定の場所を超越(天のエルサレム)  
しかし、どのようにして彼女の飢え渇いている愛を満たすことが出来るでしょうか。たとえ世間から罪の女と見られていても、彼女には“ヤコブの井戸”に象徴される、イスラエルの由緒ある子孫の一人であるというプライドがあります。
 イエスさまとの問答の中で、彼女はイエスさまの中に、ある権威を感じ取りました。自分の過去をイエスさまが言い当てたからです。イエスさまを預言者と見て、彼女は自分にとっての、本質的な問題を持ち出します。人がどう思おうと彼女にとっての唯一の拠り所は、飢え渇きを満たす神にあります。彼女はサマリア人の礼拝する山(ゲリジム山)とユダヤ人の神殿のあるエルサレムを較べ、自分を正当化して、わたしとあなたは何の関係もない、とイエスさまとの関わりを断とうとします。
 元来、サマリア人もユダヤ人も共通の神を礼拝しています。しかし、現実は両者とも相手の存在を拒否しています。間にあるのは憎しみだけです。イエスさまは、この憎しみを超える道のあることを彼女に語りました。それは、サマリアでもエルサレムでもないところで神を礼拝する時が来る、ということです。<ヨハネ4:21>
 人間の特定場所は分裂を生み出しますが、天のエルサレムには平和があります。

◆ 礼拝の対象-イエス・キリスト(揺り動かされない御国) 
この天のエルサレムの雛形が教会です。教会は地上にあって、人の相違を超える
平和が存在します。その根源にあるのが、十字架と復活に現されたイエスさまの愛です。わたしたちが礼拝の対象としているのは、イエス・キリストに他なりません。
 イエスさまは、サマリアの女に「わたしが与える水を飲むものは決して乾かない。その水は人の内で泉となって、永遠の命に至る水がわき出る。」<ヨハネ4:14>と言われました。この水とは、神の命である聖霊です。聖霊はあらゆる時、場所、状況を超えて神を求める(礼拝する)者の上に注がれます。そこに区別はありません。
 女はイエスさまの語ることに心を動かされますが、「わたしは、キリストと呼ばれるメシアが来られることは知っている。その方が来られるとき、わたしたちに一切のことを知らせてくださる。」<同:25> とのメシアの知識で最後の反撃を試みます。
このときイエスさまは「それは、あなたと話をしているこのわたしである。」と決定的にご自身を現されました。イエスさまの内に、今、すでに揺り動かされることのない御国が存在しています。それゆえに、イエスさまを通して神を礼拝する者は、聖霊に満たされ永遠の命を得るのです。今日、イエスの名を呼ぶ者は幸いです。

◆ 渇かない水を求めよう(聖霊の泉)        
猛暑の熊谷で、庭で孫の相手をしていた兄弟を熱中症で失う経験をしました。なぜ、家の中にいなかったのか・・・。同様に、荒れすさんだ世にあって聖霊の守りがなければ、わたしたちの魂は枯れてしまいます。イエスさまは、「わたしが与える水はその人の内で泉となる」と言われました。渇くことのない聖霊を求めましょう。