「道・真理・命なる主」 サムエル記下 1:17~27、 ヨハネ 14:1~11 (2013.4.28)

◆ 道・真理・命なる主-父への道
 人間にとって“衣食住”は生きていく上で欠かせないものです。雨露を凌ぐところ、それが最低限の人の住まいですが、ホームレスと呼ばれる人たちのつらさは、生活の拠点として心安らかに寝る場所がないところにあります。人は新しい生活を始める際、まず仮の住処を探し求めます。しかし、本当に安らぐ住まいはどこに?

◆ 洗足-新しい戒めと予告
 イエスさまは過越祭りの前、この世を去り父のもとへ移るご自分の時が来たことを悟りました。<ヨハネ13:1> つまり、十字架の時です。夕食のときイエスさまは、弟子たち一人一人の足を洗い始めました。師が弟子の足を洗うというのは、全く異例のことです。そこに、イエスさまの弟子たちへの深い愛が示されています。それはまた、イエスさまが弟子たちに与える新しい戒めを、身を持って教える行為となります。この洗足は一方的愛ではなく、互いに愛し合うことを促す戒めです。
 しかし、このイエスさまの愛を拒絶するサタンが既に一人の弟子に入いりました。その弟子の足をもイエスさまは洗われます。その後、イエスさまは弟子たちの中の一人が裏切ろうとしていると断言されました。それは暗にユダのことを指していますが、弟子たちには誰のことか分かりません。ユダはそのままその席を去りました。
 それを見て、イエスさまは訣別の言葉を弟子たちに語ります。「今や、人の子は栄光を受けた。神も人の子によって栄光を受ける」<ヨハネ13:31> そして、あなたのためなら命を捨てると言うペトロにイエスさまは、「あなたは鶏が三度鳴くまでに、三度わたしを知らないと言う」<同:38> と、ペトロの離反も予告されました。

◆ 訣別の目的-弟子の疑問        
 裏切りと離反の予告、訣別の言葉に弟子たちの心は不安と恐れに満たされます。そこでイエスさまは「心を騒がせるな。神を信じなさい。わたしをも信じなさい。」
と言われます。<同14:1> 神もイエスさまも信じていないと、不安が先立ちます。
 そして、イエスさまはご自分が世を去る目的を話されました。それは父(神)のところへ行って、弟子たちのために場所を用意するためです。<同:2> 地上での生活には様々な制約や限界がありますが、父の家の住まいは無限にあり永遠です。そこでは、人は地上の生活での様々な枠組みから解放されます。イエスさまはその場所を確保した後、再び戻って来てあなた方を迎えると言われました。それは、終末時における再臨だけではなく、今、現在イエスさまが共におられるという約束です。
 それは、イエスさまのおられるところにあなたがもいることになる、という予告でした。しかし、この意味を理解できないトマスは、「イエスさまがどこへ行かれるのか、わたしたちには分かりません。どうしてその道を知ることができるでしょうか。」と問います。イエスさまが地上にいる間、イエスさまの言葉は謎のままです。
 弟子たちの不安は、結局、イエスさまを理解していないからに他なりません。
 
◆ イエスの自己宣言-わたしは「道・真理・命」
その無理解は、イエスさまのしるしを見ても、そのしるしの根源である神を見ていないところにあります。それでイエスさまは、「わたしは道であり、真理であり、命である。」と自己宣言されました。それはすべて神と結びつく言葉です。イエスさまは神に至る道であり、真理である神そのものです。またその命は神と共にあります。つまり神とイエスさまは一つであるとの宣言です。この神とイエスの一体性こそが、キリスト教の根幹をなす真理です。だからこそイエスさまは、「道であるわたしを通らなければ、だれも父のところへ行くことは出来ない」と言われるのです。
 そしてイエスさまは、あなたがたは既に父を見ていると言われました。<同:6>
それはイエスさまがどういう方か知っていたなら父をも知っているはずであるということです。しかし、弟子たちはイエスさまと神とが一つであるということを、このときはまだ理解していませんでした。そこで、フィリポはイエスさまに「御父をお示しください、そうすれば満足します。」と願います。これは、人間の本音です。
 イエスさまはこれだけ長い間一緒にいてわたしが分からないのか、と嘆かれました。信仰は長い短いの問題ではありません。イエスさまの道を歩いたかどうかです。

◆ イエスにとどまる-父への道
では、イエスの道を歩くとは具体的にどういうことを指すのでしょうか。
それは、イエスが父のうちにおり、父がイエスの内におられることを信じることから始まります。<同:10> イエスさまの言葉は、最初にこれを聞いた者にとっては大変な衝撃だったはずです。当時のユダヤ人は、神と人間の間に超えがたい壁、距離間を持っていたからです。しかし、イエスさまは神との一体性を宣言されました。それは弟子にとっても信じ難い言葉であり、この壁を乗り越えるのは不可能です。
 それでイエスさまは言われました。「言葉を信じられなければ、業を信じなさい。」
この業とは“しるし”のことです。ヨハネ福音書においてイエスさまの業は、水をブドウ酒に変えるという“カナの婚礼”のしるしから始まっています。イエスさまがなされた数々のしるしをもたらす力、権威はすべて、神のもとから来ています。
 このイエス・キリストにとどまり続けるということが即ち、イエスさまの道を歩むということです。それが十字架の道に他なりません。そこにこそ神に至る道があります。神は十字架のイエスさまを復活させ、御自分の内へ招かれたからです。
 イエスさまは神と人間との隔ての幕を、十字架の死において切り開かれました。

◆ 父のもとへ行こう      
神を知っている、イエスを知っているというのは、人間の傲慢です。たとえ、知っているとしてもほんの一部のみです。しかし、イエスさまはわたしを見た者は神を見たのだとはっきり言われました。見ると信じるは同じ意味です。イエスさまを信じてその道を歩むなら、確実に父のもとに行くのだとの信仰に固く立ちましょう。