「終わりまで共なるイェス」 イザヤ 65:17~25 マタイ 28:11~20 (2013.4.7)

◆ 共なるイエス-復活顕現
先日、ブックオフ書店で“小さないのち”という犬の写真集を買いました。(650円) 内容は、動物愛護センターに預けられた捨て犬が預かり期間を過ぎてガス室に送られるまでに、一匹でも助けだそうとする女性の活動を描いたドキュメンタリーです。運よく命拾いする子犬・成犬がいます。それは飼い主が現れれた場合です。

◆ イエスの復活-神の必然
イエスさまは十字架の後、三日目に復活すると言われました。その言葉に従って弟子たちがイエスの遺体を盗み出すかもしれないと、ユダヤの宗教指導者たちはイエスさまの墓の前に何人もの番兵を置いて見張らせました。それにもかかわらず、イエスさまは復活し墓は空になったと番兵は報告します。この出来事が人々の間に広がらないよう、指導者たちは番兵に金をやって“弟子たちが遺体を盗み出した”と言わせた、とマタイ福音書は記しています。<マタイ27:62~66,28:11~15>
 それが事実かどうかはともかく、イエスさまの復活は人間の経験を超えた出来事です。人間がこれを阻止することも隠すことも出来ません。これは人の世にもたらされた神の必然だからです。つまり罪の中にあってもがき続けている人間を救うためになされた神の愛の究極の業、それがイエスさまの十字架であり復活の出来事なのです。その神による人間の救済計画を、神の被造物である人間が否定することは出来ません。復活は神の救いの業の完成を告げる、聖書の最大のメッセージです。
 ここには限りない神の愛があります。神と人との関係を回復する備えの道として、神は御子イエスの復活の出来事を、不信仰の中にある世の人々にもたらされました。

◆ イエスとの出会い-終末的出来事        
さて、婦人たちから復活の朝の出来事の報告を受けた弟子たちは、イエスさまの伝道の出発点となったガリラヤに戻ります。そのガリラヤの山(神の臨在に触れるところ)で弟子たちは復活のイエスさまと出会いました。全く新たな出会いです。
十一人の弟子たちはイエスさまに会い、そこでひれ伏し礼拝しました。しかし、心の内にはまだ、疑いがないわけではありません。「これはどういうことだろうか」
死んだ者が甦るという復活は、それほど信じがたい出来事です。だからこそ、イエスさまの前にひれ伏しつつもとまどう弟子たちの前に、イエスさまご自身が近寄って来られました。<マタイ28:18> そして「わたしは天と地の一切の権能を授かっている」と宣言されます。このイエスさまとの出会いは単なる喜びの再開ではなく、イザヤが預言しているような終末的出来事の中に弟子たちが入れられる時です。 
 「見よ、わたしは新しい天と地を創造する。」<イザヤ65:17> いかにこの世が不条理と争いに満ちていようとも、イエスさまと共にある者には、そこにすでに新しい天と地が存在します。それは祝福に満ちた世界です。これをイザヤは復活の出来事(終末)として、「狼と羊は共に草をはみ・・」と表現しています。<同:25>
 
◆ イエスからの派遣-共におられる約束 
イエスさまは世にあって、数々の神のしるし=奇跡の業を行われました。イエスさまが世に遣わされた目的は、この世を終末的平安(福音)で満たすことです。しかし、人として来られたイエスさまには、その伝道において地域的にもまた時代的にも制約があります。この限界を打ち破り、全世界に出て行って福音を伝えるのは弟子として選ばれた者に委ねられる使命です。しかし、イエスさまを裏切り、疑い迷いの中にある弟子たちに、そのような神の業を引き継ぐことができるでしょうか。
 イエスさまの十字架と復活は、神の救済計画の頂点にあります。つまり、十字架で死んだイエスさまは復活し、神より授かった権能を弟子たちに分かち与えるのです。その授かった権能をもって弟子たちは、イエスさまに代わって全世界に出て行き、宣教を開始することになります。イエスさまによる派遣はここから始まります。
 その派遣の内容とは、「すべての民をわたし(イエス)の弟子とすること、彼らに父と子と聖霊の名による洗礼を授けること、また教えること」です。<マタイ28:19>
「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」との復活のイエスさまの言葉が、弟子たちに委ねた世界宣教を根本から支える力となります。<同:20>

◆ 教会におけるイエスへの信仰告白-信仰の守りと宣教の働き
 冒頭で話したように、飼い主から捨てられそのままガス室で殺される犬は本当に哀れです。それは人間も同じです。飼い主のいない羊の惨めな様子を聖書は語りますが(エゼキエル34章)、イエスさまは弟子たちを前にして「わたしは、あなたがたをみなしごとはしない」と最後の晩餐の席で約束されました。<ヨハネ14:18>
イエスさまは「わたしは去って行くが、また、あなたがたのところに戻ってくる」と言われます。<同:28> つまり、イエスさまはご自身の復活後に、弟子たちが命に至る道を歩むように導く聖霊(弁護者・真理の霊)を送ると言われたのです。
 教会における最も古い信仰の言葉は、「神は十字架につけられたイエスを死者の中から復活させた」<使徒13:30>という告白です。この復活の命が、神に背く罪ゆえに滅ぶしかないわたしたちの内を、失われることのない命で満たしています。
 教会はこのように、イエスさまが飼い主となってわたしたちを守り導いておられるところです。しかし、教会の存在理由はそれだけではありません。マタイは最後のイエスさまの言葉を通して、弟子となる者に宣教の働きを委ねられました。それは、飼い主のいない羊(世の人々)に、牧者であるイエスを紹介することです。

◆ イエスにあって、揺らぐことのない人生を送ろう      
宣教する者が揺らいでいては話になりません。そのためにはブレない信仰が必要です。「わたしは絶えず主に相対しています。主は右にいまし わたしは揺らぐことがありません。」と詩篇は歌います。<詩16:8> イエスさまの復活を信じる者は、イエスさまと共にあって、永遠の喜びに与ります。揺るぎない人生を歩みましょう。