◆ 死んでも生きる命-イエスは復活また命
何年か前に、森繁久弥朗読の“葉っぱのフレディ”という本が評判になりました。擬人化された木の葉が、地上に散って枯れていく物語です。しかし、それは自分の命を新たな命に繋ぐ命の再生であることを知り、安らかにフレディは眠りにつきます。命の再生とキリストの復活は違いますが、死が死で終わらないことは共通です。
◆ 一粒の麦-栄光を受ける時
イエスさまの友であったラザロは死んで墓に葬られましたが、イエスさまによって甦りの命を受けます。それは、イエスさま御自身の復活の前触れとなるものです。
ラザロの復活後ほどなく、イエスさまは過越しの祭りを祝うためにエルサレムの町に入られました。人々はイエスさまによってラザロが甦らせたことを知っており、歓呼の叫びをもってイエスさまを迎え入れます。しかし、このエルサレムは、イエスさまが地上で過ごす最期の時であり、場所となります。ラザロの復活は、イエスさまの敵対者たちにとって最早、見過ごしに出来ない出来事でした。一刻も早くこの男を葬らないと、人々はイエスさまについて行ってしまうとの焦りがありました。
イエスさまはこの祭りの中でご自身が十字架にかかって死ぬことを知っておられます。それで、フィリポとアンデレに「一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。」と語ります。<ヨハネ12:23>
イエスさまの死とは、「栄光を受ける時」です。それは死からの復活を意味しています。この復活によって、人間の罪が赦され、新たな命を得ることになります。
イエスさまの死は、死で終わらない命があることを、わたしたちに伝えています。
◆ ラザロの死-イエスの覚悟
イエスさまの死が栄光を受ける時となるのは、その死が復活に結びついているからです。それは、イエスさまの栄光であるとともにイエスさまを復活させた神の栄光でもあります。ラザロの死は、神とイエスさまの栄光を現す機会となります。
そこに、ヨルダンの向こうにいたイエスさまが、ラザロの病気の知らせを受けてもすぐに行かなかった理由があります。ラザロの病気は死に至り、そこから甦ります。それはイエスさまご自身の死と復活を先取りするモデルケースとなります。
それゆえ、他の人がいぶかるほどにイエスさまは、時が来るまで動きませんでした。イエスさまがラザロたちの住んでいるベタニアの村に出かけたのは、ラザロの病気の知らせを受けて二日、さらにラザロが墓に葬られてから四日もたってからのことです。ラザロの死は誰の目にも明らかでした。しかし、イエスさまは出かける前に断言されます。「この病気は死で終わるものではない。神の栄光のためである。神の子がそれによって栄光を受けるのである。」<ヨハネ11:4> そして、弟子たちに「もう一度、ユダヤに行こう。」言われました。ついに、その時がきたのです。
その時とは、イエスさまがエルサレムで十字架について死ぬ時に他なりません。
◆ イエスは復活の命-信仰の本質
イエスさまがベタニヤに着いたとき、ラザロの姉妹マルタとマリアは悲しみの中にありました。イエスさまを迎えに出たマルタは、「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに。」と訴えます。しかし、マルタは単に恨み言を言うのではありません。「しかし、あなたが神にお願いになることは何でも神はかなえてくださると、わたしは今でも承知しています。」<同:22>
この言葉の中に、その時には理解していなかったマルタの、復活のイエスさまに対する.真の信仰の芽生えがあります。イエスさまは「あなたの兄弟は復活する」とマルタに語りかけ、そこから命の拠り所となる信仰の本質を引き出されました。
イエスさまはマルタに「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は死んでも生きる。」と言われます。<同:25> この言葉にイエスさまのすべてが集約されています。イエスさまは命そのものであり、その命は肉体的な死で終わることのない復活の命です。そして、イエスさまはマルタに「生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか。」と問います。<同>
わたしたちは、イエスさまのこの問いかけに対してどのように答えるでしょうか。
◆ 死の現実-復活の命の宣言
ここでいう“死”とは肉体の死のことではありません。現実的には、肉体の“死”を逃れられる者は一人もいません。ここでイエスさまが「決して死ぬことはない」と言われる“死”とは、罪の結果として滅びに至る死のこと、つまり第二の死<黙示録2:11>のことです。イエスさまの復活の命を信じる者は、罪赦され新しい命に生き者とされます。そのように、命には第一の死(肉体の死)から第二の死(滅び)で終わる命と、復活の命で始まる命があることをわたしたちに聖書は告げています。
イエスさまへの信仰の有無において、死に対する考え方・生き方は違ってきます。死を命の終わりとみるか始まりとみるか、どちらを信じるかで死の受け入れ方が全く違って来るのです。わたしたちは、死をどのように受け止めているでしょうか。
マルタはイエスさまに「主よ、あなたが世に来られる神の子、メシアであるとわたしは信じております。」<ヨハネ11:27>と答えています。これはイエスさまが終末に来られるメシアであり、復活の主であるとのマルタの信仰告白です。マルタは弟ラザロの死の現実の中で、復活の命を終末において信じ受け入れています。
しかし、イエスさまは現実の死の中に復活の命が存在することを宣言されました。
◆ 死を超える命を信じて生きよう
わたしたちの人生には限りがあります。60歳を過ぎるとあとどれ位生きられるかと人生を逆算するようになります。しかし、キリスト者は残された人生ではなく、与えられた命として人生を生きています。命はわたしのものではなく、神のものです。神と共にある新たな命を得るために、イエスさまの復活を信じて生きましょう。