「救いの約束」 出エジプト 6:2-13 ヘブライ 11:23-29 (2013.11.17)

◆ 救いの約束(モーセ)
キリスト教の結婚式においては、新郎・新婦の間で誓約の言葉が交わされます。
“あなたはその健やかな時も、病める時も、これを愛し、敬い、これを慰め、これを助け、その命の限り、堅く節操を守ることを約束しますか。”これは、神の定めによってなされる人間の間での約束です。しかし、残念な場合が多くあります。

◆ 約束と試練
この約束は、神と人間においては契約という形で結ばれます。これは聖書においては、神が人間与える救いの約束ということになります。それに対して、人間は神の言葉に聞き従うということが求められます。これも残念な場合が多くあります。
 残念なというのは、人間は約束を守り切れない弱さを持っているということです。
人は人との約束、また神との約束を、人間の内にある自己中心性(罪)ゆえに破ります。これを裁く資格があるのは契約の主である神であって、人間にはありません。聖書はこの罪を、イスラエルの民が置かれたエジプトにおける奴隷状況として語ります。その状況からの解放を神は民に約束します。新たな自由の地への約束です。
 しかし、奴隷生活に慣れきってしまったイスラエルの民が立ち上がるには勇気が必要です。そのために民のリーダーとして、神により選ばれたのがモーセです。彼は生まれた時、すでに殺される運命にありました。そこにモーセの原点があります。神の摂理により、彼はエジプト王ファラオの王女の子として成長します。神は彼を用いて、イスラエルの民のエジプトからの脱出という歴史的大事業を行われました。
 この救いの約束を実現するために、神は多くの試練を民全体に与えられます。

◆ 神殿崩壊の予告 
モーセは40歳まではエジプトで王女の子として帝王学(人を支配する知識)を学び、その後の40年間は一介の羊飼いとして人を治める忍耐を身につけました。そして80歳になってようやく民を率いる指導者として神により用いられます。また民も新しい地で神にある共同体を形成するために、荒れ野で40年間、飢えと渇きの試練の中を通らされ、信仰の訓練を受けます。それは、生死に関わる試練でした。
神の約束には幾多の試練が伴います。それは、人間が御言葉に聞き従うためです。
イエスさまによる救いにも同様のことがいえます。イエスさまは御自分が十字架につくためにエルサレムに上った時、弟子たちも同伴しました。彼らは光り輝く壮大なエルサレム神殿を見上げて感嘆の声を上げます。その時イエスさまは、この大きな建物は跡形もなく崩れ去るとはっきり彼らに予告されました。<マルコ13:2>
 弟子たちにとっては、それは信じがたい言葉だったことでしょう。それで、彼らはイエスさまにいつそのようなことが起こるのか、またその徴は何かと問います。
実際、エルサレム神殿は、A.D.60年 ローマ軍によって破壊しつくされました。しかし、イエスさまの予告はこれを遥か遠く超えています。つまり、終末の予告です。
 
◆ 最後まで耐え忍ぶ者の救い
マルコ13:3以下にそのことが語られます。偽イエスが現れ人を惑わし、世に戦争や地震や飢饉といった災害が満ち、イエスに従う者は権力者の前に立たされます。しかし、それはまだ産みの苦しみの始まりであるとイエスさまは言われます。その中で最も厳しく悲しいのは、身内同士での争いが避けられないということです。
 しかし、この終末における救いこそ、人間に約束された神の救いが現実となる、その時に他なりません。キリストに従う者は、迫害され、引き立てられて弁明を迫られても、言うべきこと(証しすべきこと)は聖霊が教えるとイエスさまは言われます。その終末が何故来るのかということについて、イエスさまは「福音(キリストによる救い)があらゆる民に宣べ伝えられるため」であると語っておられます。
 神の救いは一民族(イスラエル)のためだけではなく、地上に生きるすべての民の救いのためです。そのためにイエスさまは世に到来し、十字架につかれました。
しかし、それだけではまだ救いは完成しません。完成はイエスさまの再臨の時です。この時を信じ、「最後まで耐え忍ぶ者は救われる。」とイエスさまは約束されました。
 約束の実現には、苦難の時を耐え忍ぶという試練の時を避けることは出来ません。  
◆ 十字架は究極の救いの徴
さてイエスさまが命じられたように、人は自分の力であらゆる苦難に対して「最後まで耐え忍ぶ」ことが出来るでしょうか。それが出来るなら人間は人と人、神と人との間においていつも正しい関係を保ち続けることが出来るでしょう。約束を破る(契約破棄)ことはないはずです。人の世には平和が満ち、神の救いの約束は今すぐにでも実現しているはずです。現実は、というと終末の徴に満ちています。
 もう一度、モーセの出エジプトを振り返ってみます。モーセに率いられた民は、割れた海を渡って、追うエジプト軍を逃れます。そして、昼は雲、夜は火柱によって神の臨在の中を荒れ野を行進します。雄々しく、元気よく?そうではありません。不平不満、不信仰の中を喘ぎつつモーセを先頭にヨタヨタと目的地を目指しました。
この姿こそ、わたしたちの姿に他なりません。弱いわたしたちのために神はイエスさまを世に遣わし、その十字架を通して人間の罪を担わされました。それでも、わたしたちの日常から、不平不満が去りません。しかし、それでもいいのです。イスラエルの民が荒れ野の旅の果てに目的地であるカナンに辿り着いたように、キリスト者も十字架に守られて、終末を迎えることを約束されています。何という恵み!

◆ 信仰共同体(教会)は与えられた約束に生きよう 
私たちに出来ることは何でしょうか。それは自らを誇ることなく、神がモーセを通して約された言葉をいつも身に着けて生きることです。「わたしはあなたたちをわたしの民とし、わたしはあなたたちの神となる。」<出6:7> イエスさまの贖いを信じる群れ(教会)の中に生きる者は、神の救いの約束のみを堅く信じて歩みます。