「良きパートナー」 創世記 2:4-9,15-25 黙示録 4:1-11 (2013.10.27)

◆ 良きパートナー-創造
二人三脚という競争があります。これは、二人の力量だけで勝てる競技ではありません。二人の息が合うことが一番のポイントです。そして、実際に走り出した時、二人を結ぶ紐の状態が勝負を決します。強く縛りすぎても、弱すぎても走る妨げになります。適度に絆を保ち、良いパートナーであること、それが勝利の秘訣です。

◆ キリスト者の視点-天上の礼拝(神を讃える)
イエスさまはわたしたちに、祈りのパートナー(友)として“主の祈り“を教えられました。この祈りは“天の父よ”との呼びかけから始まり、“み名があがめられますように。み心が天で行われるように、地上でも行われますように。”と続きます。
 この祈りの仕方に、キリスト者の生き方のすべてが示されています。イエスさまの執り成しは、わたしたちを天の父(なる神)に向かわせます。キリストにより贖われた者(救われた者)にとっては、いついかなる時、状況においても神を讃えることが生活のすべてです。そのようにわたしたちの人生は、神を賛美しつつ神と共に、地上での礼拝から天上の礼拝へと“主の祈り”を逆に辿って行く歩みです。
 黙示録において、その天上で24人の長老たちが献げる礼拝の様子が示されます。それは、かつておられ、今おられ、やがて来られる方としての全能者である神への賛美です。 「主よ、わたしたちの神よ、あなたこそ、栄光と誉れと力とを受けるにふさわしい方。あなたは万物を造られ、御心によって万物は存在し、また創造されたからです。」<4:11> 神によって万物が創造された、これが信仰の全てです。
 キリストによって示された神は、過去・現在・未来において臨在される神です。

◆ 人間-助け手が必要(男と女)
この神の創造の業により人(アダム)が造られたことを創世記は告げています。<2:7> 神は人をエデンの園に住まわせました。その園は食べ物が豊富で、神は人に適度に働いて、その地を管理するように命じます。そして人には、「園の中央にある善悪の知識の木からは、決して食べてはならない。食べると死んでしまう。」<:16>との厳しい戒めが与えられました。この戒めはアダムが一人の時は守られます。
さて、今朝、この物語の中で示されることは、人間は孤独には耐えられない存在であるということです。エデンの園で何不自由なく暮らしていたアダムにとって唯一足りないもの、それはお互いを理解し合う助け手・パートナーの存在でした。そこで神は、言われます。「人が独りでいるのは良くない。彼に合う助ける者を造ろう。」<:18> つまり、アダムが必要としていたのは、共に生きるパートナーでした。
 そこで神は様々な生き物を造り人の前に置きますが、それらは人(アダム)にとって、互いに慰め合う、なくてはならない存在としてのパートナーとはなり得ませんでした。ついに神はアダムを眠らせ、彼のあばら骨一本から女を造ります。アダムは喜びをもって、彼の良い助け手・パートナーとして彼女を迎え入れました。
 
◆ 人間の罪-関係性の崩壊(人間愛の限界)
このように人間には、より豊な生活を満たすための良いパートナーが必要です。しかし、このパートナー関係を維持していくために注意すべきことがあることをも聖書は告げています。それは、罪の問題です。神が造った女が楽園にいる蛇に唆されて、禁断の木の実を食べるところから、男と女との間に亀裂が入ります。女は自分の犯した罪を繕うために、共犯者として男にもその禁断の実を食べさせました。女が蛇に唆されたというのは言い訳に過ぎません。また、神は直接男に戒めを与えています。罪は互いの信頼関係を失わせ、罪のなすり合いを生み出します。唆した蛇が悪い、罪に誘った女が悪い、さらに、そんな女を造った神が悪いと男は自己正当化のために、ついには神に罪を着せてしまいます。ここに罪の本質があります。
「欲望ははらんで罪を生み、罪が熟して死を生みます。」<ヤコブ1:15> 罪は人を神から離れさせ、人間関係の崩壊をもたらします。 これを防ぐのが悔い改めです。
 男は初めて女を見たとき、「これこそ、わたしの骨の骨、肉の肉。」と言って喜びました。しかし、聖書は神の戒めを欠いたパートナーとしての関係の弱さ・脆さをわたしたちに告げています。神こそがパートナー関係の継続には不可欠な存在です。
  
◆ イエス・キリスト-最善のパートナー(創造性の始まり)
ここで、もう一度“パートナー(助け手)”の意味について考えてみましょう。
 イエスさまは、「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。・・わたしの軛を負い・・わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。」<マタイ11:29,30>と言われました。これは、“わたしはあなたの良いパートナーですよ”との、イエスさまからの恵みの宣言と言えるでしょう。
 パートナーとは一方的に他者を助ける者ではありません。お互いを必要とする関係です。ただ、お互いの気持ちが一つにならなければパートナーとしての役割は果たせません。そうでなければ、一人のほうがましだということにもなりかねません。
 イエスさまとの関係でいえば、イエスさまは軛(人の重荷)を共に負うてくださることで、相手に安らぎをもたらす方です。一方、人はイエスさまに全てを委ねることにおいて、重荷が祝福に変えられます。このパートナーの関係において、イエスさまが裏切ることはありません。ただ人の側の従順・忠実さが問われています。
 人は罪ゆえに、完全なパートナーという関係を築くことは困難です。この関係を完全に満たすには、最善のパートナーであるイエスさまの執り成しを必要とします。

◆ イエスさまと共に歩もう 
わたしたちは、自分の人生の主役は自分、と思っています。その自己中心性は、パートナーをも支配しようとします。そこからは本当の喜びは生まれません。しかしイエスさまをパートナーとして歩む時、人はイエスさまからパワー(命)をいただきます。その時、人は創造性ある歩みを始めます。主と共に生きていきましょう。