「義務を果たす根拠」 申命記 4:1-8 ローマ 13:1-10 (2013.10.6)

◆ 義務を果たす根拠-上に立つ人々
わたしたちはこの世で生きている限り、世の秩序に従って果たすべき義務があります。この義務を律法的(~ねばならない)に捉えるなら苦痛となります。しかし、恵み(~しよう)として受け取るなら、そこに喜びが付加されるでしょう。キリスト者が権威ある者に執り成しを祈るのは義務ではなく、神の愛の実践となります。

◆ この世の権威-神の栄光
 イエスさまは、この世の権威者(権力者)を一概に否定していません。イエスさまに敵対する者たちは、度々イエスさまの言葉尻を捕らえて陥れようとします。その一つが「皇帝に税金を納めるのは、律法に適っているかどうか」という問いです。
 これは、巧妙に仕組まれた罠でした。“税を皇帝に納めよ”と言えば、イエスは支配者であるローマの皇帝に媚を売る者、売国奴とユダの人々から敵視されます。逆に“納めなくてもよい”と言えば、皇帝に背く者として反逆罪で訴えられます。
 どのように答えても、イエスさまの道は閉ざされます。それが敵の狙いでした。ところがイエスさまは、即座に彼らに驚くべき回答を与えます。それが「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい。」という言葉です。<マタイ22:21>
 ローマ皇帝は当時、この世での最高権力者であり、権威ある存在でした。ローマ社会とその属国は皇帝を頂点とした“平和”を享受しています。皇帝に税を納めることは、その支配の守りの内にある者の義務です。しかし一方で、皇帝の権威は神によって備えられたものです。この世の権威・栄光はすべて神の御手の内にあります。それゆえ、人はこの世の権威に従いつ、神の栄光そのものは神に帰します。

◆ 律法への忠実-命に至る道
 旧約における十戒は、その掟・定めにおいて神の栄光を現すものです。イスラエルの民は神に導かれて、出エジプトを果たしました。そして、十戒と共に新たな民族としての出発を始めます。民が共同体としての秩序を維持していくためには、その民の根本をなす精神と秩序を守る何らかの規定が必要です。それが十戒です。
 この十戒は神から与えられた賜物でした。民が目指す約束の地に入るにあたり、神が民に厳しく命じられたことは、民を真の神から惑わす偶像礼拝を避けることでした。それゆえ、神はモーセを通して「イスラエルよ。今、わたしが教える掟と法を忠実に行いなさい、そうすればあなたたちは命を得、あなたたちの先祖の神、主が与えられる土地に入って、それを得ることができるであろう。」と約束します。<申命記4:1> そのように、律法は単に守るべき義務ではなく、命に至る恵みです。
 わたしたちにとっての戒め(十戒)にあたるものは、イエス・キリストです。イエスさまは御自分を指して“わたしは命のパンであり、命の水である”と言われました。このキリストに結びつくことで、わたしたちも命を得ます。それは、やがて朽ちる命ではなく、永遠の命です。キリストの十字架に神の栄光が現されています。

◆ 世の秩序への従順-神の御心
このように、キリスト者にとっての第一優先課題はキリストに従うことです。そこに魂の救いがあるからです。同時にキリスト者といえども、この世から離れて生活しているわけではありません。むしろ、イエスさまが弟子たちを世に遣わされたように、キリスト者はこの世にあって生きることを求められています。それは、キリストによる救いを世に証しするためです。証し、それは“従順”に他なりません。
 パウロは世の支配者への従順を勧めます。それは、世の権力に屈するということではなく、世の権力者に与えられる権威もまた神に由来するものだからです。従って、世にあって権力の座にある者が神への畏れを失うならば、その者は神の権威によって退けられます。聖書は、人類の歴史の主は神であることを伝えています。
 パウロがこのように世の秩序に従うよう勧告するのは、熱狂的な信者が世の秩序を無視し権力者に逆らうことによって滅ぼされるという現実があったからです。イエスさまが「皇帝のものは皇帝に返しなさい」と言われたのは、権力者への迎合ではなく、従うべき者に従うことは人としての義務だからです。しかし、それは「神のものは神に返す」という、神の御心に従うことに徹するところから来る従順です。
  
◆ 世の権力者への祈り-キリスト者の愛
従って、この従順は盲目的に相手(権力者)の言われるがまま、という主体性のないものとは全く異なります。それはイエスさまの従順を見ると分かります。イエスさまは、律法の精神である神の愛(罪の赦し)を伝えるために、神から世に遣わされました。ではイエス・キリストの従順とはどのようなものだったのでしょうか。
 「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。」<フィリピ2:6-8> つまり、イエスさまの従順は命と引き換えです。
 わたしたちは人間であり、イエスと比較することは出来ません。イエスさまの従順は、わたしたちの罪を神に執り成すために成された行為です。それは愛の業です。この愛を受けるとき、わたしたちも他者を執り成す者へと変えられます。それは、自分に死んで、イエスさまを受け入れることによってのみ可能となる従順です。
 キリスト者はいつの時代にも、世にある権力者・指導的立場にある者に対して、神の御心としての執り成しを祈るよう求められおり、それは義務でもあります。

◆ キリストに従うことによって、執り成す者となろう 
この世にあって、忠実に義務を果たすには信仰による従順が必要です。世は不条理に満ちているからです。この不条理に対して、わたしたちの信仰は簡単に揺さぶられます。怒りに満たされるか逆に諦めが先立ちます。しかし、キリストへの従順は、不条理に耐え、権威ある者への従順を可能とする力で満たして下さいます。