「神の前での確信」 列王記上17:8~16、 ローマ14:10~23 (12.7.29)

◆ 神の前での確信(命の糧)
梅雨が明け、猛暑が続きます。こう暑いとクーラーが欠かせません。その電力源は原子力発電、原発は安全という絶対神話は先の震災で崩れ去りました。しかし、首相は再び安全宣言をして原発の再稼働に踏み切りました。では、その安全宣言の確信の元はどこにあるか。神の前での確信といえるか、それが聖書の問いかけです。

◆ 命を養う神-厳しい現実の中での確信(神の言葉)
北イスラエルの預言者エリヤは、王の背信行為への裁きとして、神の言葉を語り伝えます。それはイスラエルの地に数年の間、厳しい干ばつが来るとの預言です。
 エリヤ自身は神によって、その間養われます。最初、神はエリヤにヨルダンの東、ケリトの川のほとりに身を隠せと言われました。エリヤはそこで川の水を飲み、烏が運ぶパンと肉で養われます。その川の水が枯れると、神はエリヤにシドンのサレプタに行ってそこに住めと命じます。そこでエリヤは一人のやもめに養われます。
 エリヤは町の入口でそのやもめに出合いました。エリヤはやもめに水を乞い願います。さらに、パンを一切れ持って来るように声をかけました。しかし、やもめはエリヤが神の人であることを認めつつも、これを断ります。今、やもめは薪を拾って、残っている一握りの小麦粉とわずかな油で食べ物を作り、息子とそれを食べ、後は死を待つだけという、全く希望のない厳しい状況にあったからです。
 それでもエリヤはやもめに、まずわたしのためにパン菓子を作って持って来なさいと命じます。何と理不尽な言葉でしょうか。貧しい者の食べ物の横取りです。しかし、エリヤの言葉には、命を養うのは神であるとの確固たる確信がありました。
 
◆ 強い人と弱い人-人間的確信(裁き合い)
やもめが面しているのは、食糧が尽きようとしている厳しい事実(現実)です。それはエリヤも同じです。エリヤはやもめ以上に何も持っていません。しかし、エリヤは神の言葉を聞いています。そこに、世の現実を超える神の現実があります。彼の命を養うのは、御言葉です。彼は御言葉を命の糧として持っています。それゆえ、やもめはエリヤの、わたしにパンを作って持って来なさいという言葉に従うなら、「主が地の面に雨を降らせる日まで(数年間) 壺の粉は尽きることなく 瓶の油はなくならない。」のです。<列王17:14> 旧約のこの物語は、わたしたちに困難な現実の中にあっても、確信をもって御言葉に立つことの大切さを教えています。
 パウロはローマ書の中で、食べものを通して世における二種類の人について語りました。それは、現実(しきたり)に捕らわれない強い人と現実に留まっている(しきたりにこだわる人)弱い人のことです。問題は両者の間に裁き合いがあることです。それは、それぞれが持つ確信に立って、互いの価値観を否定するからです。強い人は自由と知識で弱い人をつまずかせ、弱い人は強い人が持つその自由と知識を批判します。双方に欠けているのは、エリヤにある“神にある確信”です。

◆ 神の国-義と平和と喜び(愛の交わり)
パウロ自身は、神が造られたものに汚れたものなどない、との強い者の立場にあります。それにも関わらず、パウロが求めるのは、強い者の弱い者に対する配慮です。強い者が得ている自由は、相手に対して優越感を持つためのものではありません。それはただ、キリストによって神の栄光を現すために与えられたものです。
 パウロの確信は、「キリストはその(弱い)兄弟のために死んでくださった」<ローマ14:15> というところにあります。強い人、弱い人というのは、この世の価値観にすぎません。神からみれば、すべては弱い人です。結局のところ、人は自分中心にしか生きられない存在だからです。本当に強い人とは、そのことを知る人です。
 自分の弱さを知る強い人は、自分の生きる目標を「神の国(神の支配するところ)」に置きます。「神の国は、飲み食いではなく、義と平和と喜び」だからです。<同:17> 救われれば、人は自由に好き勝手に何でも食べられるということではありません。それは自由の濫用、はき違えです。義とは神と人に対する責任(愛)を果たすこと、平和とは隣り人との正しい関係を保つこと、そして喜びとは他者の平安のために尽くすことです。自由とは、神と他者に対する愛の交わりに他なりません。

◆ 確信に生きる-キリストの命(罪からの解放) 
 キリストにあって自由を得た強い人に対して、パウロは「あなたは自分が抱いている確信を、神の御前で心の内に持っていなさい。」と勧めています。<同:22>
信仰の確信というものは、人に誇るようなものではありません。それはキリストによって与えられたものだからです。人はその確信によって神の前に立つのみです。
 それがキリストの命に与る者の特権です。このキリストの命こそ、尽きることのない「命のパン(糧)」<ヨハネ6:35>であり、このパンを食べること、つまりイエスをキリスト(救い主)と信じて従うことによって、人は自分ではなくキリストにある確信に生きる者とされます。この確信が、人を罪(神への背信)の思いから解放します。キリストの命がわたしたちを浄め、新たな命へと招いて下さるからです。
 サレプタのやもめがエリヤを神の人として理解したのは、エリヤが息子を死から生き返らせた時でした。そのとき、やもめは「あなたの口にある主の言葉は真実です。」<列上17:24> とエリヤの言葉に神の命が宿っていることを告白します。 
わたしたちは、イエスさまから尽きることのない命の糧である聖霊を受けることを許されています。この聖霊がわたしたちをより確かな信仰の確信へと導きます。

◆ 命の糧であるイエスを信じよう        
 聖書の言葉を神の言葉・命の糧として受け入れるかどうかは、わたしたちの信仰の確信にかかっています。つまり、イエス・キリストがわたしのために死んでくださったということを信じるなら、聖書に書かれていることはすべて真実であると受け入れるでしょう。この信仰に確信を与えてくださるのは、復活の主御自身です。