「命に至る希望」 ミカ 7:14~20 使徒24:10~21

◆ 命に至る希望(復活の希望)
家に介護用ベッドが届きました。このベッドを運んだ業者の人は、小さい頃教会に行ったことがあると話していました。今は、と聞くと“教会は敷居が高いから”と笑って答えただけでした。しかし、教会の十字架は高い屋根のてっぺんにあって、どんな人もイエスさまの介護に与ることが許される“希望”を指し示しています。

◆ パウロ、三度目の伝道旅行-苦しみと希望 
 パウロはキリスト教に回心して以来、異邦人中心のアンティオキアの教会を拠点に、三回の伝道旅行に出かけました。その旅行でパウロはキリスト教未開の地、小アジア地方(現在のトルコ)、更にはマケドニア地方(現在のヨーロッパ)まで足を延ばしています。それは命懸けの伝道旅行でした。「・・川の難、盗賊の難、同胞からの難、異邦人からの難、町での難、荒れ野での難、海上での難、偽の兄弟たちからの難・・」<Ⅱコリント11:26> それはありとあらゆる難を乗り越えての伝道です。そして、最後はローマで殉教したと伝えられています。このように。パウロを死に至るまでの伝道へと駆り立てた動機、また力はどこから来たのでしょうか。
 そのことについてパウロは「主キリスト・イエスを知ることがあまりにすばらしかったからだ」といっています。<フリピ3:8> キリストから救いを得た時、その福音は、それまでパウロにとって益であったすべてを(地位も名誉も財産も)虚しいものとしました。それ以来パウロは、キリストの死と復活に与ることを生涯に渡る望みとしました。パウロは苦しい時こそ、そこにキリストの苦しみ(十字架)を見出します。パウロの伝道の苦しみは、主の復活に与かる希望に満ちています。

◆ パウロの弁明-あらゆる時が宣教の時
さて、三回目の伝道旅行を終えたパウロは、その伝道の成果をエルサレムにいる兄弟たちに報告するためにエルサレムに向かいます。その途中、パウロは何度もエルサレムに行ってはならないという警告を人から受けました。パウロ自身、エルサレムにおいて自分に禍が降りかかることを聖霊の示しとして受けていたようです。
 しかし、パウロには他にエルサレムに行く目的がありました。それは、貧しいエルサレム教会の同胞に救援金を届けることと、パウロ自身が神殿に供え物を献げることです。またパウロは神殿で、誓願を立てた者四人と共に清めの儀式を受けました。この清めの期間が終わる七日目に、神殿の境内で一つの事件が起こりました。
律法的ユダヤ教徒たちは、キリストの伝道者となったパウロを亡き者にしようといつも機会を狙っています。そしてついにその時がやって来ました。彼らは、パウロが異邦人を神殿の境内に連れ込んだとして、群衆を扇動してパウロを逮らえ、境内から引きずり出し、当局に告発します。それは真実ではなく、彼らの陰謀でした。
 しかし、パウロは逮捕されたことを通して、この時を千人隊長やローマ総督、アグリッパ王、更にはローマ皇帝の前で福音を語る絶好の機会として利用します。

◆ 復活の希望-内に命を持つ
 パウロの弁明の目的は、ただ一つ、復活の希望を語ることであって、自己弁明や敵対者たちと争うことではありません。それは、エフエソの教会の長老たちとの別れ際に語った言葉の通りです。「(わたしは)自分の決められた道を走りとおし、また、主イエスからいただいた、神の恵みを力強く証しするという任務を果たすことができさえすれば、この命すら決して惜しいとは思いません。」<使徒20:24>
このパウロがいかなる時にも失わずに持っていたのは、「正しい者も正しくない者もやがて復活するという希望です。ただ、この復活の希望は、パウロを陥れようとする者たちも同じように抱いていました。彼らとパウロの復活信仰の違いは、十字架上で死に、そこから復活されたイエス・キリストの存在の有無にあります。
 パウロの語る復活は、これを信じる者すべてが与ることの出来るイエスさまの命そのものです。父なる神が御子イエスに復活の命をお与えになったように、イエスさまも、その命を与えたいと思う者にその命を与えるからです。<ヨハネ5:21> それは、イエスさまを遣わされた神を信じるかどうかにかかっています。イエスさまの内に命を持つようにしてくださったのは、命そのものである神だからです。

◆ 生涯の希望-イエスの十字架と復活に連なること 
パウロにとっての生涯の希望は、このイエス・キリストの十字架と復活の命に連なることでした。パウロが三回目の伝道旅行からエルサレムへと向かう途上で聖霊がはっきりと告げたのは、「投獄と苦難が待ち受けている」<使徒20:23> ということでした。しかし、パウロはためらうことなく霊の促しによってエルサレムへと向かいます。それは、イエスさまが十字架の道を真っ直ぐ歩まれたのと同じです。
 イエスさまは十字架の苦しみの先に、神による復活の栄光があることを信じていました。パウロもまたそのイエスさまの苦しみに与ることによって、福音宣教の栄光に与ることを固く信じています。その希望の拠り所は、主の復活にあります。
 どんなに立派な(に見える)人間も自らの内に、人には隠して置きたい欲望を持っています。それが罪です。その「罪が支払う報酬は死です。」<ローマ6:23> しかし、その罪から解放され、神との和解に生きる者は、「主キリスト・イエスの永遠の命(復活の命)に与ります。」<同> ここにキリスト者の希望があります。
 父なる神は、「杖をもって 御自分の民を牧され、・・咎を除き、罪を赦される」<ミカ7:14,18>ことを、御子イエスを通し、わたしたちに約束しておられます。

◆ 復活の命に与ろう        
 パウロは「わたしたちは、生きるとすれば主のために生き、死ぬとすれば主のために死ぬ・・生きるにしても死ぬにしても、わたしたちは主のものです。」<ローマ14:8>と言っています。これは、自分自身の全てをイエスさまに委ね切った者の信仰告白です。委ね切って初めて人の命は、主の復活の命(永遠の命)に与ります。