「勝利に与る者」

◆  勝利に与る者-キリストの勝利

信仰における勝利とは、争いに勝つことではありません。それは、神の子とされること、救いに与ることをいいます。そして、その勝利は自分の力で得られるものではなく、キリストの勝利、つまり十字架からの復活に与って始めて得られる祝福です。この勝利に勝る勝利はありません。イエス・キリストこそ真の勝利者です。

 

◆  臨在の幕屋-神との交わり(“離れなかった”)  <出エジプト33:7~11>

人間にとっての真の勝利とは、神が共におられることであると聖書は告げています。逆に神が離れるなら、祝福はその人(群れ)から去り、勝利は失われます。

聖書において、この信仰者(群れ)の歩む勝利と敗北の道を示すサンプルとして、イスラエルの民が登場します。この民は神との交わりと離反を繰り返しています。

神は自ら選んだイスラエルの民を、エジプトの地から導き出されました。神はその際、民の先頭に立つリーダーとしてモーセを用いられます。彼は神に忠実な僕です。

神は幕屋(民が宿営地の外に張る、持ち運び式のテント)にあって、民と共に目的地に向かって歩まれます。神の臨在が、困難な荒れ野を行進する民の拠り所です。

この幕屋に入ることが出来るのはモーセのみです。モーセが民に代わって神に伺いを立てるために幕屋に入ると、雲の柱が幕屋の入口に立ちました。その時、神の臨在を認めた民は、それぞれの天幕の前で礼拝を捧げます。この幕屋で神はモーセと親しく交わり、その語りかけを通して民は歩むべき道を示され、荒れ野の旅を続けました。モーセの従者ヨシュアは、幕屋から離れませんでした。<出33:11>

この箇所は、キリストに導かれるわたしたちの人生(教会)の歩みの縮図です。

 

◆  神が味方-キリストによる執成し(“万事を益とする”)  <ローマ8:>

モーセは神との親しい交わりを許され、人々の上に立つ指導者として、また人々に仕える者として神に用いられました。それはイエスさまもどうようです。

ただ、イエスさまには霊の注ぎによって、神と等しい権威が与えられています。。イエスさまの執り成しの働きは、この神の霊に拠ります。わたしたちには先のことは分からず、どのように祈ってよいか分かりません。しかし、わたしたちの言葉にならない祈り、うめきを神は知っておられます。そして霊の執成しによって、どのような形にせよ、わたしたちの祈りは聞かれています。<ローマ8:26,27>  そこにわたしたちの祈りの意味があります。祈りは神から出て、神に帰っていきます。

この神の霊にある望みゆえに、日常生活の中でいかなることが起こっても、わたしたちは落胆することはありません。神に従う信仰生活の中で体験するのは、「万事が益となる」<同:28>という御言葉の現実です。それは、この世的な勝利も敗北もすべては、キリストの執り成しにおいて、神の栄光に結びつくということです。

神に召し出された者は、キリストの執り成しによって祝福を得ます。つまり、神が味方であるならば、誰も、また何事もわたしたちに敵対することはできません。

 

◆  輝かしい勝利-勝利に与る者(“既に世に勝っている”)  <ヨハネ16:33>

神が味方であるということは、神が共にいてくださるということです。わたしたちにとって、これに勝る力強い援軍はありません。神は、ご自分の救いの計画を実現するために、独り子であるキリスト・イエスを十字架につけ、さらに復活の栄光、つまり輝かしい勝利を与えられました。この御子の勝利にわたしたちは与ります。

しかしその勝利は、イエスさまが地上にあって、誰一人理解する者のいない孤独の中で実現されました。イエスさまが十字架につかれた時、最愛の弟子たちすらイエスさまを見捨て去って行ってしまったのです。しかし、イエスさまは決して一人ではありません。父なる神がいつも共におられたからです。<ヨハネ16:32>

イエスさまの受難は神によって定められた道でした。しかし、その受難は復活へと至る道です。この復活の栄光を知るイエスさまは、十字架につかれる前、既に勝利を確信しておられました。だからこそ、事が起こる前に「あなたがたは世で苦難がある。しかし、元気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。」<同16:33>と宣言し、弟子たちを励まされたのです。わたしたちがイエスさまによって与えられるのは、イエスの勝利とイエスという賜物とイエスによる救いの確信です。

 

◆  信仰の確信-神の愛(“引き離すことはできない”)  <ローマ8:>

復活のキリスト・イエスは神の右に座り、わたしたちのために執り成しておられる、とパウロは語ります。(ローマ8:34) パウロは、自分自身の経験からイエスさまによる執り成しを確信していました。その執り成しが、パウロの宣教活動においての困難、「艱難、苦しみ、迫害、飢え、裸、危険、剣」<同:35> を乗り越える支えとなっています。いかなる逆境にあっても、キリストを通して神を愛し、信頼し、受け入れるなら、すべてのことが相働いて益となる、これが信仰の確信です。

この信仰に立つなら、いかなるものも(「死・命・天使・支配するもの・現在のもの・未来のもの・力あるもの・高い所にいるもの・低いところにいるもの・他のどんな被造物も」)、神の愛から人を引き離すことはできない、とパウロは語ります。<同:38,39> そこにはキリスト・イエスの十字架と復活という事実があるからです。

わたしたちが神の愛から簡単に離れてしまうのは、外的な要因からではなく、内的な要因から来るものではないでしょうか。つまり、イエスさまの十字架と復活が、わたし自身の救いの事柄として身についていないのです。キリストへの信仰の確信のみが、わたしたちを確かな信仰の勝利者、救いに与る者へと変える力となります。

◆  十字架と復活を仰ぎ見よう-神の愛  <詩編8編>

旧約の詩人は、天と地にあるものすべてに神の業を見、また、神に似たものとして人間を造られた神に驚きの声を上げています。<詩編8編> 人は神のものとして、既に栄光と威光に満たされて造られているのです。神はその愛をキリストの執り成しにおいて示されました。どんな時にも、十字架と復活を仰ぎ見ましょう。