◆ 主の豊かさと貧しさ-生涯のささげもの
パウロは「(わたしは)悲しんでいるようで、常に喜び、物乞いのようで、多くの人を富ませ、無一物のようで、すべてのものを所有している。」とコリントの人たちに語ります。<Ⅱコリント6:10> これは、豊かさかについて示唆する言葉です。
◆ 献金への呼びかけ-貧しいエルサレム教会
パウロはⅡコリント8,9章の中で、エルサレム教会への献金依頼についてまとめて取り上げています。エルサレムの教会は、キリスト教の教会にとっては母なる教会です。この地で十字架についたイエスさまは復活の後、昇天し、神の右の座にあってそこから、聖霊をエルサレムの弟子たちに注ぎました。ペトロを中心とした信仰共同体の群れ、すなわち教会はそのようにしてエルサレムの地に誕生します。
その地で礼拝を守り、財産を共有しての共同生活は祝福され、信徒の群れが日増しに加えられていきました。最初は黙認していたユダヤ教の指導者たちは、やがてキリストの教会を迫害し始めます。それでエルサレム教会に属する者たちは、主だった者以外は教会を離れていきます。しかし、逃れた人たちはその行く先々で福音を宣べ伝えていきました。神の摂理です。そのようにして、キリスト教とその教会はエルサレムから地方へ、さらにはアジア州、ヨーロッパへと広がっていきました。
その一躍を担ったのが、かつての迫害の急先鋒であったパウロです。彼は霊的には母であっても、困窮しているエルサレム教会を支える募金活動に力を入れました。
◆ 献金の意味-信仰の表れ
このパウロの募金活動にマケドニアの諸教会は協力を惜しみませんでした。それらの教会は決して豊かであったわけではありません。むしろ、厳しい困難に直面し、極度の貧しさの中にありました。その貧しさがかえって信仰の成長を促し、熱心に募金に協力する教会を形成したのです。彼らは与える(施す)喜びに満たされ、自分の力に応じ、また力以上に自主的に献金に参加することをパウロに願い出ています。
さて、パウロはエルサレム教会を援助するにあたって、直接“献金”という言葉を使わず、これをいろんな言葉で言い表しています。慈善の業(恵み)、奉仕、豊かさ(献金)、贈り物(祝福)、礼拝(公の奉仕)、交わり(施し)これらの言葉はすべて献金と結びついています。つまり、献金を通して経済的に困窮している者を援助することは、恵みであり奉仕です。それは、献げものへの豊かさと祝福を意味し、結局、それは礼拝行為につながり、献げる側と受ける側の交わりをもたらします。 つまり、献金という行為は神さまを礼拝することにつながるとパウロは言います。
イエスさまは人々が賽銭箱に献金する様子を眺め、一人の貧しいやもめがレプトン銅貨2枚を入れるのを見て「彼女は誰よりも多く入れた。生活費全部を入れた」と言いました。<マルコ12:44> 献金はその人の信仰を図るバロメーターです。
◆ イエスの豊かさと貧しさ-十字架と復活
パウロの献金への勧めは、その慈善の業を「始めたからには、やり遂げるように」
ということでした。<Ⅱコリント8:6> これは単なる人間的な促しではなく、神ご自身がキリストにおいてなされた業そのものを念頭に置いた言葉です。「あなたがたの中で善い業を始められた方が、キリスト・イエスの日までに、その業を成し遂げてくださる」<フィリピ1:6> これは、キリストにおいて始められた神の救いの業(十字架と復活)は、キリスト再臨の日には完成するというパウロの確信です。
このように、献金と寄付の違いは明らかです。献金には、寄付の裏づけとなる人間の善意以上のもの、神への感謝があります。 それは、「本来神の身分であるキリストが、神と等しい者であることに固執せず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられた。」<同2:6,7>こと、つまり、無限に豊かである神が限りある人間となられたということへの感謝です。それは豊かさの放棄ではなく、その豊かさを人間に分かち与えるためでした。それは人間の救いのためです。
パウロがコリント教会の信徒たちに教えるのは、キリストの豊かさを見よ、ということではないでしょうか。この豊かさが、惜しみなく与える原動力となります。
◆ 本当の豊かさ-神の前での貧しさ
本当の豊かさとは、物質的に満たされることではありません。人は自分が病気になって、初めて人の痛みを知るようになります。同じように、貧しさの本当の痛み、悲しみを知るのは、どん底の貧しさを味わい知った者といえるでしょう。しかし、聖書的にいう貧しさとは、この世的な物質的欠乏だけをいうのではありません。これは、非常に宗教的な意味合いを持った言葉です。山上の説教で、イエスさまが教える“幸い”についての最初の教えは“貧しさ”です。「心の貧しい人は幸いである、天の国はその人たちのものである。」<マタイ5:3> ルカはこの「貧しい」を文字通り経済的欠乏として語りますが<6:20>、マタイは「貧しい」をむしろ、心の飢え渇きに苦しむこととして語ります。もはや神の他頼るものがないほどに詰められた状態が貧しいということです。しかし、そういう意味での貧しさの中でこそ、人は神と直結します。神の前で貧しくなる者が、返って神の豊かさに与るのです。
経済的貧しさと心の貧しさは、その深いところ(宗教的側面)でつながっています。「人はパンのみで生きるものではない。」<マタイ4:4>という言葉の内に、神の言葉に生きる者の幸いが示されています。そういう意味で献金は神の業なのです。
◆ あなたの人生は豊かであるか?
聖書の中に、“与え尽くして、なお有り余る者あり。”という言葉があります。わたしたちの人生は、今、本当に豊かでしょうか。その豊かさの基準は物ではなく、心にあります。神に飢え乾いている者こそ、神の前に豊かであることをパウロは募金活動を通して、わたしたちに教えています。自分自身を喜んで神に献げましょう。