「命の言葉を保つ喜び」 イザヤ 60:19~22 フィリピ 2:12~18 (2013.6.9)

◆ 命の言葉を保つ喜び-世の光としての使命
使命のない人生は虚しいものですが、自分の使命を知り、それを全うするために生きる者は幸いです。だからこそ、その使命を見出すこと自体が人生の一大事業となります。そして神は、すべての人に使命を与えておられます。それは、「命の言葉を保つ」ことです。つまり、福音に生きることが私たちに与えられている使命です。

◆ キリスト者の使命-地の塩・世の光であること
イエスさまの回りに集まって来た群集に対し、イエスさまは「あなたがたは地の塩、世の光である。」と言われました。<マタイ5:13~15> “~となりなさいではなく、~である”というところに、弟子であることの明確な使命が語られます。
 塩は塩としての特性(清め・防腐・味)ゆえに用いられます。光は周りを照らしてこそ、その役割を果たします。特性を失った塩、照らさない灯りはその使命を果たさない以上、捨てられるだけです。それはキリスト者においても同じことです。
 ではキリスト者の使命とは何でしょうか。それはキリストの福音を携えて生きることに他なりません。キリストの福音とは、すなわちキリストによって与えられる救いのことです。このキリストによる救いである福音(命の言葉)を宣べ伝えることが、キリスト者に与えられた使命です。ですから、福音を証ししないキリスト者とは塩味を失った塩、光を隠している灯りにすぎません。それは、神にとって無用な存在として、捨てられ(裁かれ)ます。そこにキリスト者の厳しさがあります。
 しかし、心配は入りません。塩味を保ち、光の根源となってくださるのはイエスさまです。使命を果たす力は“わたし”にはなく、イエスさま御自身にあります。

◆ 福音に生きる-命の言葉を保つこと      
 イエスさまは福音そのものであり、その福音に生きるということがキリスト者に与えられた使命です。それは、言い換えればイエスさまの愛に生きるということであり、赦しを生きるということです。もし、キリストの十字架がなければ、わたしたちは神の愛を知らなかったでしょうし、罪の赦しという恵みに与ることもありませんでした。神の愛はわたしたち一人ひとりを、かけがえのない価値あるものとして立たせてくださいます。<イザヤ43:4> また神の赦しゆえにわたしたちは罪から立ち直ることが出来ます。この愛(赦し)を神はイエスさまにおいて現されました。
 もし、人間が神の愛と赦しを知らなければ、世は強い者、賢い者、能力のある者だけが勝ち残る殺伐とした世界になってしまいます。その中では、人は平安を失い、裁き合いを繰り返し自滅していきます。それが、キリストなき弱肉強食の世界です。
 そういう不毛の争いを終わらせるために、神はイエスさまを世に遣わされました。
神を知らない人は、神などいない、神の力など大したことはないとイエスさまの十字架を嘲笑います。しかし、イエスさまの福音(十字架)を信じる者は、争いの絶えないこの世にあって、命の言葉を保って(携えて)生きる確かな恵みに与ります。

◆ 神の照らし-救いに与る従順
 キリスト者がそのように生きられるのは、人間の力ではなく、「神がわたしたちの内に働いて、御心を望ませ、行わせておられる」からです。<フィリピ2:13>
 わたしたちは太陽や月の光に照らされて生きています。それは、人間は自然の恩恵を受けて生きているということです。しかし、ときに自然は人間に猛威を振るいます。聖書は、わたしたちの本当の救い、変わらざる恵みとは、「主(創造者なる神)があなたのとこしえの光となり あなたの神がわたしの輝きとなる」ときであり、「主があなたの永遠の光となる」ときであると告げています。<イザヤ60:19~20>
混沌とした世にあって、神に照らされるときキリスト者は永遠の輝きに生きる望みに与ります。つまり、神が共にいてくださるとき、人は命を得るということです。
 わたしたちは神の無条件の愛(赦し)に与っています。しかし、それだけで救いは十分ではありません。その恵みに従順に応えることが求められます。恐れおののきつつ、差し出される救いの御手を自分の手で握り返して、初めて救いの業(命に至る道)が完了するのです。救いは神と人との協同により成立します。イエスさまの死に至るまでの神への従順(十字架)こそが、わたしたちが見倣うべき模範です。
 
◆ 大いなる喜び-恵みを共に分かち合うこと
「あなたがたは地の塩、世の光である」というイエスさまの言葉は、キリスト者に与えられた特権です。キリストに従う者は、その従順故に、「とがめられるところのない清い者」とされ、「よこしまな曲がった時代の中で、非のうちどころのない神の子として、世にあって星のように輝く」とパウロは語ります。<フィリピ2:15>
しかし、信仰者に与えられるこの恵みは、一個人の賜物に留めておくものではありません。福音に生きる者、すなわち命の言葉を保つ者は、この賜物の豊かさをすべての人に宣べ伝える使命を担っています。一人の人がキリストにあって得ている喜びは、他と分かち合ってこそ神の御心に適う喜びとなります。喜びの連鎖です。
 パウロがこのフィリピの信徒への手紙を書いているとき、彼は獄中にありました。それも、将来殉教するかもしれないという厳しい状況に置かれています。それでもパウロはキリストにある喜びを失っていません。なぜでしょうか。それは、フィリピの人たちが、パウロの伝道によって「命の言葉」をしっかり保っているからです。
 わたしたちの誇りは、与えられた使命(伝道)を今、忠実に果たすところにあります。それは今という時を超えて、終わりの日を見据えた命に結びつく喜びです。
 
◆ 本当の喜びに生きよう      
この世のものはすべて過ぎ去っていきます。お金も地位もこの世の栄光も業績も人間関係も健康も命そのものも・・・。そういう中で、私たちにとっての絶対的な喜びとは何でしょうか。パウロはそれを、キリストに結びつくことだと言います。福音に与ってこそ、人の行うどんな些細なこともすべて祝福で満たされるからです。