「死者の復活」 列王記 3:4-15 Ⅰコリント 15:35-52 (2013.8.25)

◆ 死者の復活-究極の希望
 今、TV視聴率の高さで話題になっているのが、朝ドラの“あまちゃん”です。一人の女の子が挫折を味わいつつ、アイドルを目指す物語・・。アイドルには偶像という意味があります。キリスト者が求めているのは、アイドルではなく真の神です。それは死から復活したキリストに他なりません。キリストこそ究極の希望です。

◆ 復活伝承-福音の要
 教会はこのキリストの死と復活を福音の要として語り伝え、受け継いで来ました。伝道者パウロも、教会の最も大切なこととしてその福音を受け継いだ一人です。
 その教会の伝承とは、「キリストがわたしたちの罪のために死んだこと(贖罪)、葬られたこと、三日目に復活したこと、そして弟子たちに現われた」ということです。<Ⅰコリント15:3-8> この顕現について、復活のキリストはまずケファに、ついで12人に、そして、500人以上の兄弟たちに、また、主の兄弟ヤコブとその後すべての使徒たちに、最後にキリスト者を迫害したパウロにも現れた、と語ります。
 この伝承で大切なことは、キリストの復活と顕現は過去の出来事としてではなく、
今も継続して起こっているということです。つまり、教会は世の終わりに至るまでこのキリストの復活に関わる出来事を、福音の要(救いに関わる最も大切な事柄)として、語り継いでいくということです。十字架と復活抜きの福音は有り得ません。
 使徒としてのパウロに対して疑いをもつ信徒もいました。彼を月足らずで生まれた者(未熟児)と嘲る者たちに対し、パウロ自身それを謙虚に受け止めています。だからこそ、そんな彼にも顕現されたキリストの恵みの大きさをパウロは語るのです。

◆ 復活内容-朽ちるものから朽ちないものへの変化
 コリント教会の中には、キリストの復活は認めても、個々人の体の甦りは信じないという人たちがいました。そこには霊は清く、肉体は卑しいものという考えがあります。死んで朽ちてゆく体に甦った霊が宿るわけがないというのです。霊的に自分はすでに救われたと思っている者にとっては、肉体の復活は必要はないのです。
 そこで、パウロは彼らの復活認識の誤りを“種のたとえ“をもって語ります。種は朽ちるものとして地に蒔かれます。そして、まさに朽ちることによって朽ちないものに復活するのです。そのことをイエスさまは自らに起こる事柄として、弟子たちに語りました。「一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。」<ヨハネ12:24> イエスさまの十字架における死が、復活の命・霊の命として甦り、信じる者の肉体を通して甦りの命をもたらすのです。
 朽ちるものとは、弱い体・卑しい体をもった体です。それが、復活の命に与ることによって、強い体・輝かしい霊の体へと変えられるのです。聖書が語る復活は、霊だけの復活ではなく、新しい体にキリストの霊が宿るという仕方での復活です。
 肉体と霊が同時に甦るというところに、わたしたちの究極の希望があります。

◆ 神の神秘-一瞬の変容
この復活の時について、パウロは「最後のラッパが鳴ると共に、たちまち、一瞬のうちに・・死者は復活して朽ちない者とされ、わたしたちは変えられます。」と語ります。<Ⅰコリント15:52> これがパウロの言う復活の神秘です。<同:51>
 さらに教会は、キリストの復活による救いの出来事はキリストの再臨において完成するという信仰を伝えています。そして、パウロも含めて信徒たちはキリストの再臨は自分たちの生きている間に起こるという希望を持っていました。しかし実際には、その時代の信徒たちが生きている間に再臨はありませんでした。ただ教会における信仰が再臨信仰にあることは、パウロの頃も今も変わりはありません。
 ラッパがいつなるか(再臨―終末の時)は、わたしたちには分かりません。分かっていることは、パウロが言っているように、その時こそ、キリストを信じて、今生きている者もすでに死んだ者も一瞬のうちに完全な者に変えられるということです。この神秘的救いの業こそ、神にある命、神の知恵ということができるでしょう。
 さて、ソロモンが王位を継いだ時、神に求めたのは「訴えを正しく聞き分ける知恵」でした。<列王上3:11> それは単なる人間的知恵ではなく、神の知恵です。
  
◆ 発見-神の知恵である命
ソロモンが神に求めたのは、この世的な長寿や、富や敵の命ではなく、神の知恵そのものでした。これは実に大胆な求めです。創世記において神はアダムに、「善悪の知識の木からは、決して食べてはならない。食べると必ず死んでしまう。」と警告しておられるからです。<1:15> 神の知恵は、人を殺しも生かしもする両刃の剣です。神に知恵を求めたソロモンは、神に従順であった時は栄えました。しかし、その後神に対して謙虚さを失った時、王朝は分裂、滅びへの道を辿ります。神の与えた知恵(命)を人間的な知恵(保身)に刷り替えたところに、ソロモンの犯した過ちがありました。キリストの福音も、人間に都合よく曲げるなら、その命は失われます。
 この神の知恵である命の救いを、人間は自ら創り出すことは出来ません。それは、復活の命に与って始めて得られるものです。この命はキリストにあって発見する(見出す)命です。わたしたちは、この命を生涯、探し求めています。これを見出す者の喜びをイエスさまは、“天の国のたとえ”で教えています。「畑に宝が隠されている。見つけた人は、そのまま隠しておき、喜びながら帰り、持ち物をすっかり売り払って、その畑を買う。」<マタイ13:44> キリストに命を見出す者は幸いです。
 
◆ キリストの再臨信仰に生きよう   
わたしたちの信仰がキリストの十字架のみで終わるなら、そこにあるのは神との断絶であって連続はありません。しかし、キリストが甦りの初穂となられたゆえに、キリストに従う者もその復活の命に与る約束を与えられています。この命の大逆転の勝利に究極の希望を置き、日々、キリストの再臨信仰を強めていきましょう。