「主を畏れる家族の幸い」 創世記 24:62-67 コロサイ 3:18-4:1 (2013.8.11)

◆ 主を畏れる者の幸い-家族
 今、日本で問題になっているのは限界集落の存在です。その地域では高齢者が細々と片寄せ合って何とか生活しています。先日、山口県の村全体が身内のようなある小さな村で、殺人事件が起こりました。全く救いようのない出来事です。人が信じられなくなるほど不幸なことはありません。真の幸いはどこにあるのでしょうか。

◆ 神を畏れる民-イスラエルの祖
詩編128編は、都に上る歌 (エルサレムへの巡礼の歌)です。ここでは、“主を畏れる者の幸い”が歌われています。巡礼者は家庭的(妻や子)にも祝されます。それは信仰者が受ける祝福であり、イスラエル民族の平和を祈る歌となっています。
 このイスラエルの祖を言い表すとき、旧約聖書はアブラハム・イサク・ヤコブと三代の名を連名で言い表すことがあります。それは、アブラハムが受けた神の恵みをその子イサクが継承し、孫となるヤコブが受け継いでいることを示すものです。
アブラハムは神から召しだされたとき、行き先も知らずに出発しました。そこには神への信仰があります。<ヘブライ11:8> イサクはアブラハムが100歳のときに妻サラから生まれた信仰の子です。そして、ヤコブは最愛の妻リベカから生まれた双子の兄弟の弟として嗣業を受け、後にイスラエルという名を神から賜りました。
 イスラエル民族の神は、この三人の名を通して言い表されるのが通例です。アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神。これは、別々の神ではなく、イスラエル民族が神と仰ぐ方は共通の神であるということを表しています。三者連名の神は、イスラエルという民族を支配しておられる神の唯一性を言い表す言葉でもあるのです。

◆ 家族訓-家庭の中心
 十戒の中の第五戒には“あなたの父母を敬え。”とあります。<出20:12> この戒めは、家族において真の神を子に伝える役割を担う父と母の責任の重要性を教えています。イスラエルにおいては、家族の中心に位置しているのは“神”です。
 この旧約の家族訓は新約においても受け継がれています。コロサイ3:18~4:1は、この神を前提として、家族の構成員である妻・夫・子・奴隷にたいしての具体的な
戒めが述べられています。これらの戒めを理解するには、当時の社会的状況を知っておく必要があります。夫は家族の中で絶対的権威をもっています。離縁の決定権は夫にのみあり、妻には一切ありません。妻には自己を主張する権利はありませんでした。子は親の付属品です。奴隷にいたっては家財道具とみなされ、その年季明けは捨てられて死ぬときです。こういう社会構造の中でユダヤ教の家庭釧を受け継いだキリスト教が果たした役割は、過激な社会革命ではなくゆるやかな改革です。  
それは、弱い立場にある者に対して威圧的に臨むのではなく、相互の存在を認め合う愛の精神の教えです。妻は夫に仕え夫は妻を愛する、子は両親に従い父は子をいらだたせない、奴隷は主に仕えるように真心を込めて主人に仕えること・・等。

◆ 主人たちへ-天の主人
 当時、人格そのものを否定されていた奴隷に対して、聖書は「あなたがたは、御国を受け継ぐという報いを受ける」という救いの言葉を語っています。<コロサイ3:24> ここには主人も奴隷も、共に主キリストに仕えるという点では同等であるということを教えています。これは、当時の社会通念からすれば驚くべき教えです。
 そのことは、主人への戒めにおいて明確に述べられています。「主人たち、奴隷を正しく、公平に扱いなさい。知ってのとおり、あなたがたにも主が天におられるのです。」<同4:1> 主人と奴隷といっても、それはこの世における関係であって、天にはすべての主である神がおられます。この神を主と仰ぐなら、主人と奴隷の関係は世にある間だけのものです。ここには、世における権威者への戒めがあります。
 この世に真の権威をもたらしたのは、主イエス・キリストです。聖書はこのキリストの権威について、「キリストは神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。・・・へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。」と語ります。<フィリピ2:6~8> 真の権威と従順は表裏一体です。
  
◆ 私の家族-父の御心を行う人
この神の御子であるキリストは人間イエスとして、世の人々に神の国の福音(救い)を宣べ伝えました。しかし、家族を含めて世の人々はイエスさまの権威ある言葉や業によるいやしの働きを神に由来するものであると理解していません。そのため母と兄弟が心配して、群集に教えておられるイエスさまを連れ帰ろうとしたことがありました。その時イエスさまは「だれでも、わたしの天の父の御心を行う人が、わたしの兄弟、姉妹、また母である。」とはっきり言われます。<マタイ12:50>
 イエスさまにとっての家族とは、血ではなく信仰によって繋がっている者の関係をいいます。天の父を神とする者は、すべて主(神)にある兄弟姉妹です。イエスさまを通して神を信じる者は、男女・老若・国籍・言葉、そういったあらゆる違いを超えて、すべてが家族とされます。それが、イエスさまが世にもたらした恵みです。
 教会とはそういう神の家族という恵みを、この世に対して実質的に証ししているところです。神の家族においての真の権威者は十字架のキリストです。このキリストと結びつくことによって、教会に集う者は神の祝福に与ります。それは、アブラハム・イサク・ヤコブの系図に繋がる、神の祝福に満ちた愛の家族に他なりません。
 
◆ 幸いなる家族を作ろう   
この世には、幸いな家庭・崩壊寸前の家庭・崩壊してしまった家庭など様々な家庭があります。誰もが幸いな家庭を持ちたいと願っています。しかし、人間的な繋がりには限界があります。いつかは終わりの時が来ます。その限界を超えるのが、主を畏れる“神の家族(教会)”です。教会にあって、共に神の祝福に与りましょう。