「罪を告白する」 エレミヤ 7:1-7 使徒言行録19:11-20 (2013.7.7)

◆ 罪を告白する-生活の刷新
先週から、当教会では早天祈祷会が始まりました。朝、5時半から6時半までです。これが終わると、近くの神社境内でやっているラジオ体操に参加します。真に霊肉共に満たされる一時です。一週間たちましたが、これが一ヶ月、一年と継続されるなら、出席する者の生活は必ず刷新され、祈りも満たされると期待しています。

◆ エフェソでのパウロ-奇跡の業を行う
 パウロは第2,3伝道旅行でエフェソを訪ねています。エフェソはローマ帝国統治時代のアジア州の首都であり、ローマと東洋をつなぐ海陸路の接点として繁栄した都市です。この地には壮麗なアルテミス神殿があり、政治・商業貿易・宗教上重要な地でした。パウロはこの地に腰を据え、2年にわたって伝道を行いました。<使徒19:10> パウロのこのエフェソでの伝道は、ローマ伝道への転機となります。
 この地で信仰に入った人たちは、洗礼を受けたものの、まだ聖霊を受けていませんでした。彼らが受けた洗礼は、洗礼者ヨハネによる悔い改めの洗礼だったからです。そこでパウロは、彼らに“イエスの名”による洗礼(御霊による洗礼)を授け、彼らの上に手を置くと聖霊が降り、彼らは異言や預言の言葉を語り始めました。
 神はパウロを使徒ペトロやヨハネのように霊の力で満し、奇跡の業を行わせました。パウロが身に着けていたものに触れるだけで病人が癒され、悪霊が出て行きました。<同:11> パウロの奇跡の業はすべて、“イエスの名”に依るものです。
 人々は、聖霊が“イエスの名”によって働くとき、人の罪を清め、病を癒し、悪霊どもを追い出すのを、パウロの奇跡の業を通して具体的に見聞きしました。

◆ パウロを真似る祈祷師たち-イエスの名を用いる
さて、そのようにパウロが“イエスの名”により、目覚しい奇跡を行っているのを見たユダヤ人の祈祷師たちがいました。(ユダヤ人祭司長スケワの七人の息子)
彼らも悪霊に取りつかれた人々に向かって、「パウロが宣べ伝えているイエスの名によって、お前たちに命じる」と言って悪霊を追い出そうとしました。<同:13>
しかし悪霊は、「イエスのこともパウロのこともよく知っている。だが、いったいお前たちは何者だ。」と言い返し、悪霊に取りつかれている男は彼らに飛びかかって裸にし、傷つけひどい目に遭わせました。それで、彼らはその家から逃げ出しました。
<同:16> この祈祷師たちと悪霊とのやり取りは、何を伝えているのでしょうか。
 それは“イエスの名”にある霊の力です。信仰において霊の賜物に与っている者は、その賜物によって奇跡の業を行う力が備えられています。しかし、その霊の力を自分の利得を得るために利用しようとする者にとって、“イエスの名”は逆にその者を滅ぼす力となります。それは、彼らは神の霊を悪用しようとするからです。
 しかし、信仰者であっても“イエスの名”による奇跡実現の願いは誘惑となります。奇跡の業は神の賜物であり、各自に与えられる霊の賜物には違いがあります。

◆ 悪行の告白-悔い改め&それにふさわしい行い
このユダヤ人祈祷師たちと悪霊との対決の成り行きを知ったエフェソに住むユダヤ人とギリシャ人たちは、“イエスの名”に秘められた力を恐れ、あがめるように
なりました。そして、「信仰に入った大勢の人が来て、自分たちの悪行をはっきり告白した」と聖書は記します。<同:18> イエスの名を恐れるとは、その名を最優先することです。イエスの名を恐れるとき、人は自ら罪を告白し悔い改めへと導かれます。これもまた、“イエスの名”が呼び起こす奇跡ということができるでしょう。
 告白だけではなく、魔術を行っていた多くの者はその魔術書を持ってきて、皆の前で焼き捨てました。その値段は銀貨5万枚にもなったとあります。これはとてつもなく高価な値段です。(億単位) それを惜しげもなく焼き捨てさせる力が“イエスの名”にはあるということです。命はお金に代えられるものではありません。“イエスの名”こそが、悪を断ち切らせる力です。聖霊の力は、真の命を得させます。
 このユダヤ人祈祷師の失敗物語は、わたしたちに信仰のあり方を教える教材となります。それは、信仰は決して自分の欲望や願いを満たす道具ではないということです。また、真の悔い改めは告白とそれにふさわしい行いを伴うということです。
 
◆ 神の声に聞き従う-ふさわしい実を結ぶ
“イエスの名”は、単なる固有の名ではありません。この名は、人間の罪(悪)を担い、赦しを得させるために十字架で死んだイエスさまの命を現すものです。さらに、その死から復活された新たな命に満ちています。それゆえに、信仰によってこの名を受け入れる者にとって、イエスの名は生活を一新させる大きな力となります。
 エレミヤは神殿に詣でる人々に、「神の言葉を聞いて、お前たちの道と行いを正せ。主の神殿、主の神殿、主の神殿とむなしい言葉に依り頼んではならない。」と神の言葉を告げています。ここで言われる行いとは、正義を行うこと、寄留の外国人、孤児、寡婦を虐げず、無実の人の血を流さないこと、異郷の神々に従わないことです。しかし実際に彼らが行っていることは、主の神殿というむなしい言葉に依り頼み、盗み、殺し、姦淫、偽りの誓い、偶像礼拝を行うことでした。<エレミヤ7:1-10> むなしい言葉に依り頼むとき、行いも必然的に忌むべき行いになってしまいます。
イエスさまは、「すべて良い木は良い実を結び、悪い木は悪い木を結ぶ。」と言われました。<マタイ7:17> つまり、神に聞き従う信仰はそれにふさわしい実(行い)を結び、形だけの信仰はふさわしい実を結ばない―救いはないということです。
 
◆ 信仰が生活刷新と結びついているか    
わたしたちの信仰は、自らの生活刷新と結びついているでしょうか。生活が改まらない信仰は、エレミヤの言う「主の神殿」というむなしい言葉に満足していることに他なりません。生活の刷新のためにはイエスの名が必要です。その名には、自らの力では捨て切ることの出来なかった執着心を捨て切る力が備えられています。