「神が望まれること」 歴代誌下 6:12-16 Ⅰテモテ 2:1-8 (2013.6.30)

◆ 神が望まれること-祈り
過度の期待は人の成長をつぶしてしまいかねませんが、その人に応じた期待は人の成長を促します。では神はわたしたちに何を期待しておられるでしょうか。それは自分の力に頼って生きることではなく、神に信頼して生きることです。その信頼の基はイエス・キリストです。キリストを通しての祈りを神は待っておられます。

◆ 同労者への勧め-自分の体験
Ⅰテモテへの手紙はⅡテモテ・テトスと共に、牧会書簡と呼ばれます。これらは、教会が信仰共同体としてまとまってきた時代、教会の指導的立場にある者に対して、パウロがこの組織をいかに維持し教えていくか、また異端への注意などについての具体的な指示を与えた書簡です。テモテもテトスもパウロの伝道の良き協力者、同労者でした。特にテモテは若い頃から、パウロの忠実な弟子でもありました。このテモテは、後にエフェソの教会の監督となり、殉教したと伝えられています。
 パウロはこの手紙の中でも、かつて自分が「神を冒瀆する者、迫害者、暴力を振るう者」<Ⅰテモテ1:13>であり、神はそういう者をもキリスト・イエスの贖いによって救い出してくださったと証しします。そういう体験から、パウロは「キリスト・イエスは、罪びとを救うために世に来られたという言葉は真実であり、そのまま受け入れるに値します。」<同1:13>と、若い同労者テモテに告白しています。
 パウロは自身が教会の迫害者であっただけに、間違った教えによって教会を荒らす者の脅威をよく知っていました。それゆえ、テモテに対してパウロは「信仰と正しい良心とを持って、雄々しく戦いなさい」と力強く励まします。<同1:18,19>

◆ すべての人への祈り-信心と品位・平穏と落ち着いた生活      
 教会は内外から圧迫されて厳しい状況におかれても、この世に対して閉鎖的・妥協的ではなく、開かれているべきです。その現れは礼拝にあります。礼拝における祈りはすべての人々に対してなされます。パウロはこのことを強調します。祈りはすべての人々に対して成される願いであり、執り成しであり、感謝です。その祈りの対象の中には、異教の王、ローマ皇帝も含まれます。この世の平和と繁栄は人々にとっても祝福された生活となるからです。それゆえ、キリスト者の祈りは人間的な制約を越えたところにあり、信心と品位があります。品位とは状況によって態度を変えることのない謙遜な態度です。それは変わることのない神を基としています。
 ソロモン王は父ダビデの意志を受け継ぎ神殿建築を完成させましたが、そのとき王は真に謙遜な祈りを神にささげました。<歴代誌下6章> その祈りは神殿の主である神を讃え、僕ダビデに与えた約束が実現されること(ダビデ王朝の存続)、そして、民の犯す罪が赦されることです。ここに、民を執り成す者の祈りがあります。
 私たちがすべての人々のために祈るのは、「キリストを信じる者が、一人も滅びることなく永遠の命を得る」ことを神が望んでおられるからです。<ヨハネ3:16> 

◆ 唯一なる神&唯一なる仲介者-真理の内容
わたしたちの関心は、自分を喜ばせることにあります。つまり、自分の思う通りになることを願っています。しかし、パウロは教会の指導者はそうであってはならず、神の御前に何が良いことか、喜ばれることであるかを考えなさいと勧めています。<Ⅰテモテ2:3> これは、それまでの生き方からの一大転換を求めるものです。
 それは、わたしたちが何を信じ、どのように生きるべきかについて問い直すことです。宗教的には回心といわれるものです。かつてのパウロは自分の義(正義)を守ることに命を懸けていました。それは自分の考えに反する者を徹底的に裁くことにつながります。しかし、イエス・キリストとの出会いが彼を本来求めるべき神の義に立ち帰らせました。教会はいつでも神の義が最優先されているところです。
 人々が救われるためには真理を知る必要がありますが、その真理とは何でしょうか。それは、神は唯一なるお方であるということであり、これはユダヤ教と全く同じ神観です。さらに、その神と人間との間に立つ仲介者(執り成す者)はイエス・キリストただ一人であるということです。わたしたちにとって神が唯一なる方であり、キリストがただ一人の救い主であるということが真理であり、教会の信仰です。
 
◆ 祈りの実践-贖い主への信頼   
その一方で、異端は早くから教会に入り込んで来ました。異端とは、聖霊を受けた特定の者だけが救われるという教えです。この教えは教会を人間的・独善的・偽善的集まりとします。そこには、神の愛、キリストの恵みが欠けているからです。
 パウロが教会の指導者に語ることは、自分自身がキリストの贖いによって救われたように、贖い主であるキリストのみを信頼するようにということです。唯一なる神が人間の救いを完成させたのは、このキリストの贖いによります。贖いとは本来、奴隷を代価を支払って買い取るということですが、キリストは罪の奴隷となっていたわたしたちを自由な者とするために、御自分の命を神にささげられたのです。ここに、十字架の意味があります。この十字架への信頼なくして救いはありません。
 わたしたちは自制心に乏しく、自分自身を持て余していることの多い者です。まして、人の救いのために祈るほどの愛に欠けています。しかし、そういう者のためにイエスさまは死なれました。これもまた、真理です。この真理に信頼して始めて、わたしたちは自分のためだけでなく、すべての人々の救いのために祈る者へと変えられます。教会はキリストの名に拠って立ち、祈りを分かち合うところです。
 
◆ 神が望まれることを行っているか    
わたしたちは日頃、どれだけ神が望まれることを行っているでしょうか。これは、単なる道徳的行為を超えた問題です。神は人が救われるために、~してはならないではなく、~せよと命じておられます。その~せよとは、祈ることです。神の前にへりくだって祈ることを神は喜ばれます。キリストにあって共に日々祈りましょう。