◆ 福音は敵意を滅ぼす(異邦人の救い)
今流行りのツイッター(インターネットによるつぶやき)は、言いたい放題で敵意の応酬といった感があります。機械的に心のうっ憤を世に撒き散らす無制限な言葉は、人の痛みを無視した言葉の武器です。。しかし、ものは使いようで、この武器を福音の道具として用いたらどうでしょうか。多くの魂が救われることでしょう。
◆ 敵意-隔ての壁を生み出す(嫉妬)
パウロは愛について、「愛は忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない。愛は自慢せず、高ぶらない。礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない。不義を喜ばず、真実を喜ぶ。すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える」<Ⅱコリント13:4~7> と、キリストにおける愛の内容を具体的に語ります。愛こそ個人だけではなく、交わりにおける成長を生み出す大きな原動力です。
では、人から愛が失われるならばどうでしょうか。憎しみが敵意となって自らの怒りを増し、他者との交わりにおいて修復不可能な隔ての壁を築くようになります。この憎しみの根源には嫉妬(妬み)があります。嫉妬は他者の才能や権威を喜ばず、これを排除しようとする思いです。他者の存在を否定し、敵意をもって相対します。
人間の歴史の中での最大の嫉妬は、イエスさまに対する人間のとった態度ではないでしょうか。聖霊の力をもって神の国の到来を宣言し、悪霊追い出しや病の癒し等の奇跡を行うイエスさまを、世は神の子として受け入れず、それどころか、十字架につけて殺してしまいました。妬みは敵意を生み、敵意は殺人を正当化します。
「汝の敵を愛せ」との御言葉が実現されるのは、隔ての壁が取り壊された時です。
◆ 平和-二つのものを一つにする (十字架)
今日読んだエフェソ書の箇所の中心となるテーマは、和解を意味する“一致”です。それは、敵対する二つのものが一つとなるということです。しかし、この両者の間には超えることの出来ない隔ての壁があります。壁は人間の罪を現しています。
聖書は、天の領域(神)と地の領域(人間)、ユダヤ人と異邦人問題を対立と敵意において、和解が最も困難な原型として示しています。それはユダヤ教とキリスト教においても同様です。またイスラエルとパレスチナなどの領土を巡る敵対関係は、今もいつ果てるとも知れない隔ての壁のあることをわたしたちに告げています。
こういう現実の人間社会の中に、イエスさまの福音は和解と一致を宣言しました。イエスさまの十字架は、人間のもつ自己義認の愚かさに終わりを告げたのです
それは、隔ての壁を取り壊すことを意味します。イエスさまの十字架は神と人間を隔てる壁を取り去りました。それにより、神の前にユダヤ人と異邦人の区別は取り払われました。また十字架は、人間が作り出す独善的な律法解釈を廃棄し、律法を本来の神の恵みへと導きます。わたしたちが自ら作り出す壁は、何でしょうか。
十字架による和解・一致の目的は、敵対するものの間に平和をもたらすことです。
◆ 神の家族-教会という共同体(隅の親石・要石)
つまり本当の和解は、十字架が間に立って、人が神に立ち返ってのみ成立します。
それは、「異邦人が神の契約を固く守るなら、わたしの祈りの家(神殿)に連なることを許す」というイザヤの預言<56:6,7>の実現です。神の憐みによる十字架は、敵対する二つのものを一つにするという希望・約束を満たしました。それをエフェソは、神の聖なる神殿、つまり教会という共同体の成長のたとえにおいて語ります。
この世に立つ教会は、悔い改めて神に立ち返るなら、誰もが“神の家族”と成り得ることを象徴的に現しているところです。教会には何ら差別も区別もありません。
しかし、たとえ教会であっても神の恵み(十字架)が退き、人間の存在が教会の中心となるなら、教会もまた救いを求める人にとって、隔ての壁となってしまいます。
そうならないために、わたしたちは教会という建物の組み立てを心に留めて置く必要があります。石造りの建造物の例えでいえば、建築の最初は隅の親石を据えるところから始まり、最後は要石がはめ込まれます。つまり、親石であり要石であるキリストが教会のアルファ(初め)であり、オメガ(最後)であるということです。
ゆえに、キリストなくしては教会(信仰)は崩壊し、そこに一致はありません。
◆ 神の憐み-悔い改めを待つ(想定外の預言)
たとえ背く者であったとしても、神が人間に望んでおられることは、人間が悔い改めて神と和解することです。聖書はこの真実をヨナ書を通して、明確に語ります。
ニネベという町は神に背く都会でした。神はこのニネベの町に悔い改めを促すために、預言者ヨナをニネベに遣わします。ヨナは大いに不満でした。神に背く敵国ニネベなど、滅びてしまった方がいいというのがヨナの本心だったからです。
しかし神の命令には逆らい得ず、仕方なしにニネベの人々に神の審きの言葉を宣教したところ、何とニネベの人たちが悔い改めて神に立ち返ってしまったのです。
しかし、それこそが神の望んでおられたことでした。ここに神の憐みがあります。
「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」<ヨハネ3:16> 神にとって、滅びてもいい者は一人もいない、ということを聖書はわたしたちに告げています。
しかし、わたしたちはどうでしょうか。ヨナのように神に従ってはいても、それは自分の信じる想定内のことだけではないでしょうか。敵に福音を語ることを神は要求しておられます。それは、想定外のことにおいても神に従うことを意味します。
◆ 喜びの歌と共に刈り入れよう(福音によって)
詩編126編は、神との和解の内にあって平安を得ている巡礼者の喜びの歌です。諸国に散らされたユダヤ人は、敵意と嘲りの中にあって唯一、神からの慰めに生きる民族でした。この神との和解を得ていることが、やがて喜びの歌となり、神からの祝福を刈り取ることになります。まず、イエスさまにあって神と和解しましょう。