「あなたの息子は生きる」 ホセア14:2~8 、ヨハネ4:43~54

◆ あなたの息子は生きる(生命の回復)
わたしの知り合いの息子さんは、30歳くらいから引きこもりが始まりました。もう10年以上たつでしょうか。会社を辞めて以来、社会に適応しようとせず、ごみの山の一室で暮らしています。それは本人の思いとは別に、“生きている”ということからはかけ離れた生活です。彼に“生命の回復”はあるのでしょうか。心配です。

◆ イエスの宣教-“預言者は故郷では敬われない”(不信仰) 
 聖霊の注ぎを受けたイエスさまの宣教は、その言葉に命がありました。 言葉が生きているということです。それは『神は言われた。「光あれ」こうして光があった。』<創世記1:3>とあるように、語った言葉がそのまま“成る”ということです。
しかし、ある意味でこれは怖いことではないでしょうか。もし人が自制心をもたずに、欲の赴くままに言葉を操れるとしたら、その先にあるのは滅びです。人間の歴史の中で多くの独裁者が起こり、そして自らの語る言葉で消滅していきました。
神の語る言葉には天地創造の力があり、それは一方で滅ぼす力ともなります。造られた存在としての人間の語る言葉とは次元が違います。だからこそ、人間は神を神として敬う謙虚さが求められます。不信仰は罪ある言葉を生み出すからです。
 さて、イエスさまは「預言者は故郷では敬われない」と言われました。この故郷とはどこを指すのでしょうか。イエスさまが育ったところはガリラヤのナザレです。
その地の人々は、イエスさまの生い立ちを知っています。だから、イエスさまが神の権威をもって語ってもそれを信じようとしませんでした。しかし、ヨハネ福音書においてイエスを拒否するのはユダヤ人であって、ガリラヤの人々ではありません。

◆ イエスを信じる者-“子供が死なないうちに、おいでください”(信仰) 
ここにヨハネ福音書の特徴があります。イエスさまを受け入れたのは、敵対関係にあるサマリア人であり、異邦人の地といわれたガリラヤの人々です。しかし、本来の同胞であるユダヤ人は、「言は、自分の民のところへ来たが、民は受け入れなかった。」<ヨハネ1:11>とあるように、イエスさまを受け入れないどころか十字架につけて殺してしまいました。不信仰はつまずきとなり、永遠の命を遠ざけます。
 今日読んだ聖書箇所は、イエスさまの言葉を信じることにおいて、イエスさまの癒しの力を頂き、新たな命を得た者のことを物語っています。<ヨハネ4:46~54>
イエスさまがエルサレムからサマリア地方を通ってガリラヤのカナに戻られた時のことです。この地でイエスは水を葡萄酒に変えるという最初の奇跡を行っています。そのイエスさまのところへ、カファルナウムから王(ヘロデ)の役人がやって来ました。自分の息子が危篤状態で、イエスさまに息子の病気の癒しを求めて来たのです。イエスさまはまず、「あなたがたは、しるしや不思議な業を見なければ、決して信じない。」と人間の心の内にある不信仰を語ります。しかし、「子どもが死なないうちに、おいでください」と必死に懇願する役人の信仰は認められました。

◆ 生命の回復-“あなたの息子は生きる”(言葉)  
 「帰りなさい。あなたの息子は生きる。」<ヨハネ4:50> これがイエスさまの癒しの宣言の言葉です。生きるとは助かるということですが、この生きるという言葉は、ここで三度繰り返されます。それだけこの言葉が重要だということです。この「生きよ」との言葉通りに、役人の息子の病は癒され命の回復がなされたからです。 
 役人は「イエスさまの言葉を信じて」帰って行きました。<同:50> ここに役人の信仰があります。息子が実際に癒されたかどうか分からない状態であったとしても、イエスさまが「あなたの息子は生きる」と言われた以上、その言葉を100%信じる、これを“見ずして信じる信仰”といいます。対照的なのがイエスさまの弟子であったトマスです。イエスの復活を疑う彼の前に、復活のイエスさまご自身が現れ、十字架に付けられた手首の傷跡、槍で突き刺された脇腹を見せた時、初めてトマスは「わたしの主、わたしの神よ」とイエスさまへの信仰を告白しました。その時イエスは、「見ないのに信じる人は幸いである。」<同20:29>と言われました。
 役人は、しるしを求める(癒しを見る)より先に、まずイエスさまの言葉を信じました。それが、イエスさまの言葉に命が宿っていることを知る者の信仰です。

◆ 回復と祝福-“背く彼らをいやし 喜んで彼らを愛する”(悔い改め) 
 真の信仰を神は喜ばれます。そして、信じる者に回復と祝福をもたらします。そこに、神に立ち帰る者の幸いがあります。しかし、何度しるしを見ても悔い改めないところに、人間の罪の深さがあります。イスラエルの預言者ホセアは、この罪からの救いを神の憐みとして、同胞エフライムの繁栄と滅び、更に回復を語ります。
 「イスラエルよ、立ち帰れ あなたの神、主のもとへ。あなたは咎につまずき、悪の中にいる。」<ホセア14:2> この預言が語られたとき、偶像礼拝にどっぷりと漬かり切ったイスラエルの命運はすでに尽きていました。それでも、神に立ち帰れとホセアはイスラエルに呼びかけます。人の目には最悪の状態でも、神には新たな恵みがあります。ホセアは神の憐みを信じて、同胞に悔い改め呼びかけました。
 このホセアを通して、神はエフライムの回復を約束されます。それは終末における回復と祝福です。(エフライムの所属する北イスラエル王国はB.C721年アッシリアによって滅ぼされました)その時、神は「背く彼らをいやし 喜んで彼らを愛する」と言われます。裁きは祝福となり、神の怒りが去る時が来るのです。<同:5> 
 これは、悔い改めて神に立ち帰ることを促す、わたしたちへの預言ともなります。

◆ イエスの言葉を信じて生きよう(生命の回復のために)        
「神はわたしたちの魂を贖い 陰府の手から取り上げてくださる。」 これが詩編の作者の信仰です。<詩編49:15> 神にとっては、病も死も同じことです。どちらも神から離れる罪のなせる業です。それゆえ、“生きる”とは神に立ち帰ることに他なりません。それは、具体的にはイエスさまの言葉を信じ受け入れて生きることです。