共にいる霊

◆  共にいる霊(真理の霊)

昨年、牧師館の流しの水が溢れ出ました。長年に渡って溜まったものが下水管を詰まらせたのです。業者に高速洗浄してもらい、管の通りが良くなりました。同じように、不信仰が積み重なると聖霊が働かなくなります。そのため、わたしたちも神に立ち返り(信仰における高速洗浄)、聖霊の通りを良くしておく必要があります。

 

◆  イエスは道・真理・命-イエスはどこへ(愚問・そのⅠ)  

聖書が示す罪とは、人間が神から離れた状態をいいます。その罪の問題は、神による人間の創造が行われた後、禁断の実を食べるという仕方で、創世記3章には既に記されています。それだけ、人間は不完全な存在なのでしょう。人は罪ゆえに、いつもその存在の奥底で不安を抱えています。この不安を解消するものは信仰です。つまり、人は罪から解放されるためには神に立ち返る他ないのです。自分の力で救いを得る事は出来ません。その救いの道を示されたのが、イエス・キリストです。

イエスさまは、世に救いをもたらすために十字架上で死なれ、そこから復活し、神のもとに帰還されました。それは、弟子たちの“住むところ”を用意するためです。そこで、弟子たちが神と共にあって永遠の命を得るためです。<ヨハネ14:2>

イエスさまは、「わたしがどこへ行くのか、その道をあなたがたは知っている。用意ができたらあなたがたを迎えに戻って来る」<同:4>と言われました。しかしトマスは、「分かりません。どうしてその道を知ることが出来るでしょうか。」と尋ねます。そこでイエスは、「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。」と宣言されました。<同:6>

 

◆  人間の願望-神を見ること(愚問・そのⅡ)

そして、イエスを知る者は父(神)を知る、あなたがたは既に父を見ていると言われます。すると今度はフィリポが、「主よ、わたしたちに御父をお示しください。」

とイエスさまに願います。<同:8> どうしたら神を見ることができるでしょうか。

それに対しイエスさまは、わたしを見た者は父を見たのだと言われます。これはイエスさまの内に、神のすべてが内在していることを言い表しているのです。

神を見たいと思うのは、人間が持つ願望の一つです。しかし、人間は神を見る事は出来ません。なぜなら、創造者である神の全体像を見るには、被造物にすぎない人間は余りにちっぽけな存在にすぎないからです。神を見れば満足するというフィリポの言葉には、神を自分の内に取り込みたいという人間のおごりがあります。

しかし、神は人間を憐み、小さく弱い存在にすぎない人間の願いを受け入れ、御自身を現されました。それがイエス・キリストです。イエスさまには神の本質・本性のすべてが備わっています。それゆえ、イエスを見た者は神を見たのです。

そしてイエスさまは、「こんなに長い間一緒にいるのに、わたしが分かっていない。」<同:9> と、神もイエスも理解していない弟子たちの信仰を明らかにします。

 

◆  真理の霊-弁護者(神とイエスの一体性)

ヨハネ福音書はイエスと父(神)との一体性を強調します。それは、一神教を奉じるユダヤ教側からの批判に対する弁明です。イエスは即ち神であり、神はイエスそのものです。それは、イエスの言葉、また業そのものが示していることです。イエスさまの言葉には、神のみが持つ罪を赦す権威があります。またその業には病を癒し、悪霊を追い出し、嵐を鎮める力があります。このイエスさまを信じる者は、イエスが行う以上の業を行うようになる、とイエスさまは言われます。<同:11>

イエスの名によって願うことは、かなえられる<同:14> というその約束の源泉は、父なる神が遣わす別の弁護者(助け主)の働きによります。イエスさまはこれを“真理の霊”とも言われます。この霊は、イエスを信じることのない者には与ることの出来ない神の力です。この霊は信じる者の内にあって、その者と共に働きます。それは、イエスの内に神の力(聖霊)がいつも働いていたのと同様です。

聖書における(キリスト教)における神とは、イエス・キリストの神です。それはイエスと神が一体の神であり、さらには聖霊も含めて三位一体の神であるということです。そこに偶像の神-”うつろなもの”<イザヤ40:17> との違いがあります。

 

◆  信仰の戦い-信仰の表明(神に栄光を帰す)

このイザヤ40章28節~31節は、神について、神が与える力について、神から力を受ける者について語ります。「神の英知は究めがたく、疲れている者に力を与え、主に望みをおく人は新たな力を得、・・走っても弱ることなく、歩いても疲れない。」

神に生きようとする者には、信仰の戦いは避けられません。戦いとは、神が世に遣わされたイエス・キリストを救い主(メシア)と表明し続けること、その信仰を“時が良くても悪くても”証し続けることです。この戦いには聖霊の注ぎが必要不可欠です。トマスやフィリポのように人間の知恵(知識)や体験だけでは、神であるイエスの本質を知り得ないからです。人間はいざ自分の手に余る困難に遭遇すると、すぐに信仰を失う弱く脆い存在です。神の前に、人間の強がりは通用しません。

パウロは若い宣教の動労者テモテに、「信仰の戦いを立派に戦い抜き、永遠の命を手に入れなさい。」と勧めています。<Ⅰテモテ6:12>  議論や口論、うつろなもの(特に金銭)に執着する者は信仰から迷い出て苦しみに陥ります。<同:4~10>

わたしたちの信仰に求められるのは、すべてのことにおいて、見たことのない神に栄光を帰すことです。この神をイエスさまは聖霊を通して指し示しておられます。

 

◆  真理の霊に従え(偶像を離れて)

真理の霊(弁護者・聖霊)に導かれて歩むなら、わたしたちは父なる神のもとに導かれるとイエスさまは約束されます。それは、偶像を離れることを意味します。しかし、今執着しているものを手放すことは、全財産を投げ出すほどの勇気と決断を要することです。共にいてくださるキリストの霊のみが、それを可能とします。