「神の栄光を現す体」 歴代誌上 29:1-5 Ⅰコリント 6:12-20 (2014.2.2)

◆ 綺麗になった教会-汚れを落とし、新たに塗り替え
教会の内面壁紙補修と外面塗装が年末から年明けの月末にかけて行われました。4月以降の工事予定が、これほど早く終わり驚いています。今後10~15年位はもつでしょう。外面塗装では、まず足場組みに1日、それから高速洗浄に1日を要し、そこから本番の塗りに入りました。教会の中から工事の様子を眺めていた次第です。

◆ ダビデの祈り-神殿建築の備え
改めて思うのは、何事にせよまず事を始めるには、下準備がいるということです。教会補修工事でいえば、足場組みです。それがなければ工事は先へは進みません。
 今の教会は、旧約時代における神の臨在する場としての神殿です。ダビデ王は北と南に別れていたイスラエル12部族を一つの王国に統一した偉大な王です。功なり、名を遂げた信仰深いダビデが心から望んでいたのは、主なる神のために神殿を奉献することでした。その建築のためならば、ダビデはどんな労も惜しまず、厭わなかったでしょう。しかし、神はダビデの神殿建築をお許しになりませんでした。それは、ダビデはそれまで戦いに明け暮れ、大地に多くの血を流してきたからです。<歴代誌22:8> 神はダビデに代わり、その子ソロモンを後継者として立てることを宣言します。そして、神殿建築はソロモンの手に委ねられることになりました。
 しかし、ソロモンはまだ若くて力弱く、神殿建築工事は大事業です。それでダビデは神の神殿のために力を尽くして、建築のために必要な建築資材を準備します。金、銀、青銅、鉄、木材、各種の石、また個人の私財の寄贈・・。<同29:1-5>
まさに、神殿建築はイスラエの神の臨在を讃える一大国家事業として行われました。

◆ 清くされた体-イエスの憐れみと癒し 
しかし、ダビデは自分が犯してきた罪と神の赦しの中で、神が喜ばれるものが何であるかをよく知っていました。詩編51編はそのことを歌っている詩編の一つです。ダビデの後継者となるソロモンの母バト・シェバ、彼女は元ダビデの忠実な部下であったウリヤの妻です。彼女をダビデは王としての権力で奪い取りました。後にその罪を悔い改めたダビデは詩編の中で告白します。「神の求めるいけにえは打ち砕かれた霊。打ち砕かれ悔いる心を神よ、あなたは侮られません。」<詩51:19> 
 神殿に本当に献げられるべきものは、まず、集う者の清くされた悔い改めの心です。それを知るからこそ、ダビデは神殿建築を潔くソロモンに託したのでしょう。
 新約聖書においては、イエスさまによる病の癒しや悪霊追い出しが多く物語られています。当時、病気は罪の結果と考えられていました。そこに、イエスさまの癒しの意味があります。つまり、イエスさまの悪霊追い出しや病の癒しやは罪の赦しや清めと直結しているのです。<マタイ1:40~211 > (重い皮膚病が清められて癒された場合の証明についてはレビ記14章に詳しく語られています。)要するに、イエスさまは損なわれた心と体に苦しむ人を憐れみ、癒されたということです。

◆ 自由と放縦の履き違え-人間の傲慢
このイエスさまの癒し、即ち清めとダビデの神殿建築と何の関わりがあるのか、と皆さんは思うでしょう。しかし、この二つの事柄には共通点があります。両方ともその行為は、自分ではなく神の栄光を現すためのものであったということです。
 ここに、神殿(教会)を建てる者が心すべきことが示されます。それは、「主御自身が建てるのでなければ 家を建てる人の労苦はむなしい。」<詩127:1> とあるように、神を第一とする謙遜な心です。ダビデも自己満足のために、自分で神殿を建てることも出来たでしょう。しかし、それは御心に適わないことです。イエスさまの癒しの力は神の霊の注ぎから来ています。御心に適う行いが祝福をもたらします。
 しかし、コリント教会の中には、“自分たちはすでに救われている、だから何をしても許される、と主張する熱狂的な信徒たちがいました。彼らの罪は、その傲慢さにあります。さらにこのコリント教会は、この町全体が性的に乱れた環境にあったというところに問題があります。傲慢さと性的乱れが一つになれば、当然、神への信仰は形骸化してしまいます。パウロが危惧したのは、コリントの教会の信徒たちが、間違った自由に惑わされることでした。神への従順を失った自由は放縦です。

◆ 贖われた体-霊が宿る 
 放縦とは、好き勝手に衝動的に行動することをいいます。自由には責任が伴いますが、放縦は責任放棄にその特徴があります。その結果として、自滅に至ります。
 パウロはⅠコリント6章12~20節で特に“みだらな行い”の問題を取り上げます。
まず、キリスト者の自由とは性的放縦ではなく、主なる神に向かうことである。 次に娼婦と交わるのではなく、主と交わることが大事である。 最後に性的放縦は、神の住まいである自分の体に対する罪であるゆえに、避けるべきである、ということです。十戒の後半部での罪、殺人<六戒>・盗み<八戒>・偽証<九戒>・貪欲<十戒>は、全て他者に害をもたらすものですが、<七戒>の姦淫は、自分自身の体を損なう罪を招きます。人が主に向かい主と交わるのは、この罪を避けるためです。
 創世記は、神が人を造られた次第を「主なる神は、土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった。」とあります。<2:7> ここでは、神の霊を宿した人間の尊厳が語られています。
 神は自由を履き違えて自滅してゆく者を憐れみ、もう一度、その者を神の子とするために御子を十字架につけて罪を赦してくださいました。その者とは、私です。

◆ 神の栄光にふさわしい、生き方をしよう。
「知らないのですか。あなたがたの体は、神からいただいた聖霊が宿ってくださる神殿であり、あなたがたはもはや自分自身のものではないのです。」<Ⅰコリント6:19> 外見はどうあれ、聖霊が宿る体は神のものです。与えられた体そのものが、既に神の栄光を現しています。その栄光を現すのにふさわしい生き方をしましょう。