◆ 自分の務めを果たす(旧約における神の言)
事の大小を問わず、私たちには“生きている証し”として、何らかの果たすべき務めがあります。その決意表明を表すものとして、子どもの頃、学校の正月宿題として書初めがありました。そこで書く言葉は、教会の主題聖句のように、一年の方向性を示すものとなります。言葉は、人の行動を具体的に示す枠を作り出します。
◆ 旧約における神の言の豊かさ-とこしえに立つ
旧約における神の言葉は、律法・定め・命令・戒め・裁き等で言い換えられます。 この神の言の豊かさを詩編は賛美しています。<詩編19:8-11> 「8主の律法は完全で、魂を生き返らせ 主の定めは真実で、無知な人に知恵を与える。9主の命令はまっすぐで、心に喜びを与え 主の戒めは清らかで、目に光を与える。10主への畏れは清く、いつまでも続き 主の裁きはまことで、ことごとく正しい。11金にまさり、多くの純金にまさって望ましく 蜜よりも、蜂の巣の滴りよりも甘い。」
このように、神の言は完全・真実・まっすぐ・清らか・まことであり、いつまでも続き、金にまさり、蜜よりも甘いと詩編作者は歌います。被造物は無言の内に神の言を、創造者なる神への賛美として伝えています。「5その響きは全地に その言葉は世界の果てに向かう。」この神の言を通して、人は自らの内に罪を認めます
この神の言のもつ永続性を、イザヤも語ります。「草は枯れ、花はしぼむが わたしの神の言葉はとこしえに立つ。」<40:8> どんなに権力を持った人間も神から見れば、枯れる草、散る花のようなものであり、その栄えは一時のものに過ぎません。しかし、神の言は変わることなく、旧・新約を超えて私たちの前に置かれています。
◆ 神の言葉を告げる者の務め
そのように、神の言は蜜よりも甘い面があると同時に、罪に対しては厳しい裁きの言となって人間に臨みます。それは、人が神の言を聞いて、自らの罪を悔い改め、神の豊さの中に立ち帰って生きるようになるためです。エレミヤはそのような神の言を人々に伝える務めを果たす者として、神に用いられた預言者の一人でした。
エレミヤの預言は、ユダ(南王国)の救いを語るところにあります。神の言はエレミヤを通して、国難に面して神の言を受け入れず、大国であるエジプトやバビロンに頼ろうとする王に向かって語られます。しかし、王やその側近は神の言を無視し、その記された巻物をすべて炉に入れて燃やしてしまいました。<同36:23>
彼は“涙の預言者”と呼ばれます。それは、彼の語る預言の言葉を多くの人々(王から民衆にいたるまで)は聞こうとはせず、逆に彼を侮り、迫害し、殺そうとさえしたからです。余りの苦しさに、彼は一切預言することを拒否した時もありました。神を恨み、自分が生まれてきたことさえ呪います。しかし、神の言葉は彼の心の中で燃え上がり、黙っていることが苦しくなり、ついに彼は神に屈服します。彼は預言者としての務めを果たす者へと変えられたのです。<エレミヤの告白20:1-18>
◆ 義の栄冠に至る者の務め
旧約における神の言による救いは新約においては、イエス・キリストにおける救いの言葉、即ち“福音”ということになります。パウロは福音を異邦人に宣べ伝える務めに生涯を捧げました。パウロにとってこの務めは、何にも勝る神の賜物です。
パウロは、弟子であり同労者であるテモテに福音を携えて伝道する宣教者としての心構えとその務めの内容について、懇切丁寧に諭します。<Ⅱテモテ3:15-17>
まずテモテの信仰を導き育んだ聖書について。聖書はキリストへの信仰を通して救いに導く知恵を与えるものであるということ。聖書は神の霊の下に書かれたものであり、人を教え、戒め、誤りを正し、義に導く訓練をするうえで有益であるということです。また、聖書は神に仕える者が善い業を行うよう整える力ともなります。
パウロは、生きている者と死んだ者を裁くために来られる再臨のキリストに思いを馳せつつ、テモテに命じます。「折が善くても悪くても御言葉を宣べ伝えなさい。忍耐強く、人を戒め、励まし、十分に教え2なさい。」<同:2> エレミヤの時代のように誰も御言葉を聞こうとせず、自分に都合の良い言葉に逸れて行くからです。
このように語るパウロには既に殉教の影が迫っています。彼は「わたしは戦いを立派に戦い抜き、決められた道を走り通し、信仰を守り抜いた」と自らの務めを果たし終えた喜びに満たされ、今や義の冠を受けるばかりだと語ります。<同:6-8>
◆ 信仰者の務め
しかし、ここでパウロは自己満足に陥っているのではありません。彼は「義の冠」即ち天国への切符である救いは、誰でも得られると保証しています。それは、「主が来られるのをひたすら待ち望む人」に授けられる神の恵みだからです。<同-8>
パウロは最善を尽くし切った宣教者といえるでしょう。それはパウロの力ではなく。御言葉を通して働いた聖霊の働きに拠るものです。彼を満たし、生涯を伝道者として突き動かしたのは、常にキリストと共にある喜びという一言に尽きます。
私たちの信仰においても同様のことがいえます。信仰が義務や強制ではなく、自発的なものであり、喜びに満ち溢れているならば、与えられた務め(それが何であれ神に仕えるという思いがあれば)を全うすることは苦ではなく、喜びとなります。
そこには神から“義の冠”を受けるという、世にはない確かな目標が生まれます。
ユダの荒地で御言葉を叫んでいた洗礼者ヨハネは、人々にイエスさまを迎え入れる備えを促しました。彼は旧約の悔い改めの御言葉と新約の救いの言葉を担うイエスさまを結びつけた預言者です。信仰者の務めは信仰を貫き通すところにあります。
◆ 自分の務めを果たそう
聖書の御言葉のどれか一つを実際に生きてみることが、信仰を身につける確かな方法だとある人が言いました。素晴らしい御言葉も、それが生活の中で生かされて始めて、実りある信仰となります。御言葉を通して、自分の務めを果たしましょう。