◆ 信じる力(神に属する者)
飼っているヨナ(猫)は、16歳となり老いが目立つようになりました。その兆候の一つとして、食べたものを消化出来ず、すぐに吐いてしまいます。消化能力が弱まってきているようです。わたしたちの信仰も衰えてくると、力を失います。そうならないために、絶えず霊の補給が必要です。信じる力は霊により強められます。
◆ 偶像礼拝の禁止-偽預言者との対決
この世での最高の権威は、創造主なる神であることを聖書は告げています。人は権威あるものにひれ伏します。問題は、その権威が本物かどうかです。本物の権威に仕えるなら人は祝福を得ますが、偽の権威に頼る者は自らに禍を招きます。
エレミヤは同胞イスラエルの救いのために、神から遣わされた預言者でした。彼の使命は、神の言葉(御心)を忠実に民に語り伝えることです。それは人々に神からの祝福をもたらすためでした。しかし、多くの者は彼の言葉を拒絶します。一方、体制お抱えの預言者もいます。彼らは王の(民衆の)望むことを、神の権威をもって語ります。人々はそれによって一時の安心に浸りますが、結局は滅びに至ります。
エレミヤとハナンヤは、神の言葉をもって争いました。エレミヤは、バビロンによってイスラエルは滅ぼされると預言し、ハナンヤはイスラエルは神によって守られると預言します。まさに、どちらも神の権威によって立つことを主張しますが、言っていることは正反対の預言です。互いにその預言を偽りとして非難します。
どちらが本物か、それを明らかにするのは神ご自身です。十戒の第2戒は、偶像礼拝の禁止ですが、この偶像との戦いがイスラエルの歴史そのものといえます。
◆ 神に属する者-霊が備える信じる力
神ならぬものを神とすることは、偽りの神にひれ伏すことです。その時、人は自分を神とする(絶対化する)という偽りの罪を犯します。本当の神に従う者は神に属する者(神の子)とされますが、偽りの神に従う者は偽りの子となり、神に属する者とはなりません。では、本当(真実)の神はどこにおられるのでしょうか。
それを知らせるのがイエス・キリストです。イエスさまの言葉を聞いて信じる者は、神に属する者です。なぜなら、イエスさまのうちに真理があるからです。真理とは福音であり、命であり、愛です。それは救いの言葉として、聞く者に臨みます。
一方、悪魔の本性は偽りにあります。その偽りの言葉に従う者は神に属する者とはならず、偽りの子となります。悪魔はその者を、真実の道・救いから遠ざけます。
イエスさまはこの世に真実をもたらしました。というより、イエスさまご自身が真実な方です。それゆえ、イエスさまに聞き従う者も真実な者とされます。そのように、イエスさまの言葉を信じる者とさせるのは、神から来る“霊”の働きです。神が与える霊とは、「力と愛と思慮分別の霊」です。<Ⅰテモテ1:7> この霊が聞く者の心を開いて、本物と偽物(神と悪魔)とを明確に見分ける力となります。
◆ 神の証し-キリストの十字架と復活
さて、イエスさまの真実とは何でしょうか。それは“十字架と復活”です。イエスさまは人間の罪が赦されるために神の審きとしての十字架につかれました。その贖い(神へのとりなし)の業を通して、神はイエスさまに復活の命をお与えになりました。人間はこのイエスさまの十字架と復活において、罪の赦しと永遠の命即ち“救い”に与る者とされています。それがイエスさまに対する“神の証し”です。
地上にあって、イエスさまはヨハネより洗礼を受け、福音宣教の完成の時として十字架につかれました。つまりイエスさまは信じる者を神の子とするために、水(洗礼)と血(聖餐)と霊(復活)の備えとなられました。それはイエスさまを受け入れる者への終末における救いを約束すると共に、現在の救いそのものともなります。
神の証しとその御心に適うイエスさまの業、それを信じる教会(弟子たち)、この神とキリストと教会を一つとするのが霊の働きです。そこに真の救いがあります。御子を信じる人は、自身の内に御子の命を宿します。しかし、この御子についての神の証しを信じない人は、神を偽り者にします。<Ⅰヨハネ510> その者は、イエスさまとは結ばれず、従って真の命(永遠の命・救い)を得ることは出来ません。
◆ 死に至る罪-救いの自己放棄
Ⅰヨハネはその手紙の結びに当たって、「死に至らない罪と死に至る罪」について述べています。<5:16~17> 死に至る罪とは、イエスさまを拒絶することをいいます。その人はイエスさまと結ばれることはありません。その人は神によって備えられた救いを自ら放棄することによって、自ら死に至る罪を招く者となります。
神から遣わされていない偽りの預言者ハナンヤは、エレミヤが預言した通り、そ
の年に死にました。ここに、神を偽る者への厳粛な神の審きがが示されています。
それは、死に至る罪(赦されない罪)についての具体的な一例といえるでしょう。
わたしたちの信仰は、神が御子を通して永遠の命に至る道を用意してくださった、ことを信じるところにあります。御子の命を代償として、わたしたちの命は救いに与っています。この御子の命のとりなしによって、神の御心に適う願いは聞き入られ、既に適えられているという確信を、今、わたしたちは神から与えられています。
この神を信じる力を与えてくださったのが神の子イエスです。そして、イエスさまを信じて神に属する者となった者には、誰も手を触れることは出来ません。 「もし、神が味方であるならば、誰がわたしたちに敵対できますか。」<ローマ8:31>
◆ 死に至る罪を悔い改めよう
イエス・キリストを救い主と信じること、御言葉に聴き従うということが、いかに大きな恵みであるかを知る者は、もはやキリスト以外に救いを求めることはしな
くなり、その必要もありません。わたしたちがなすべきことは、死に至る罪に陥らないことです。もし罪を犯したなら、即悔い改めてイエスさまに立ち帰りましょう。