「永遠の住家を望む」 ダニエル12:1~4 Ⅱコリント5:1~10 (2012.10.7)

◆ 永遠の住家を望む
フーテンの寅さんの稼業は的屋です。全国の祭りを渡り歩き、気が向くと故郷である葛飾柴又に帰り、一騒動起こしてまた旅に出るという繰り返しです。寅さんにとって柴又は、どこにあっても忘れることのできない、地上での永遠の住家です。では、わたしたちは永遠の住まいというものを、どこにもっているでしょうか。

◆ 定住への望み-幕屋(テント)生活からの脱却
 イスラエルにおけるユダヤ3大祭りには、過越祭・七週祭(五旬祭)・仮庵祭があります。その中でも最大の祭りが仮庵祭です。これは元来、農耕暦での秋の収穫感謝の行事でした、後に、出エジプトを果たしたイスラエル人が経験した荒れ野の苦しみとさすらいの天幕生活を記念する祭りとなりました。人々は祭りの期間中、野外に木の枝などで粗末な仮住居を建ててそこで生活し、この祭りを通して神の導きと守りを想起し、この世が仮の住居であることを告白するしるしとしました。
 現在、世界の中で内戦状態にある国の多くの人々が難民キャンプでのテント生活を余儀なくされています。いわゆるライフラインといわれる水道も電気もガスもない生活がどれほど過酷なものか、それは生活した者でなければ分からないでしょう。
中には難民キャンプで一世代、二世代を過ごす人もいます。そのようなテント生活からの脱却は、戦いが終結し平和が訪れない限り不可能です。誰しも、落ち着いて平安に過ごせる、一定地に定まった住家を持つことを心の底で願っています。
 ある期間で取り壊される被災者用の仮設住宅ではない、定まった住家で暮らせるということはいかに幸いなことでしょうか。それが永遠の住家であったら猶更です。

◆ 永遠の住家-神の備える家
しかし、人間が生きていることの恵みを知る上で本当に必要としているのは、単に物質的な、人の手で造られた住家ではありません。天幕であろうと、仮設住宅であろうと、プール付きの一軒家であろうと、地上の住まいはいつかは消滅します。そういう意味では、わたしたちの地上でのどのような住まいも仮の住まいにすぎません。だからこそ、わたしたちは地上にあって滅びることのない、永遠の住家に住まうことを望んでいます。永遠の住家、それは、神によって備えられる建物です。
地上における仮の住まいには、絶対に安心ということはありません。この世にあっては、様々な艱難や出来事があるからです。しかし、その仮の住家の上が天から与えられる住家を着る(覆われる)なら、その住家には真の平安があります。
 では、天から与えられる住家を着るとはどういうことでしょうか。それは、仮の住まいである地上にあって、神の下に生きることをいいます。パウロは、地上の住家を去ってキリストと共にいることを熱望していますが、地上にあることで実り多い働きが出来ます。<フィリピ1:21~24> 彼は永遠の住家を望む個人的願いと、地上の住家に留まり伝道者としての働きを全うすることの板挟み状態にあります。

◆ 再臨信仰-霊に生かされる命
わたしたちはどうでしょうか。地上での住家にあって、あれもこれもとの願いばかりが多く、天上の住家には余り関心がない、というのが本音ではないでしょうか。
 しかし、いずれわたしたちは地上の住家を去る時(死)が来ます。その時になって永遠の住家(命)を願ってももう遅い、ということはありませんが、しかし、神の国(永遠の住家)を受け入れるには、霊的な備えが必要です。つまり、信仰の備えです。それがなければ、わたしたちの体は地上にあって朽ち果てるのみです。
 この死ぬはずの体が命に飲み込まれる(朽ちるべきものが朽ちないものを着、死ぬべきものが死なないものを着る<Ⅰコリント15:54>)ことを信じるのが、キリストにある復活信仰です。それは、キリストの再臨信仰と結びつく信仰です。
 命ある者が生きることを願うのは当然です。しかし、地上での命には限りがあります。この限りある命を永遠の命へと入らせるのが、キリストの復活の命です。この命に与らせるために、神はキリストを世に遣わされました。そして、十字架で死に、復活されたキリストの霊に与る時、死ぬべき体(地上の住家)が、霊に生かされる命、即ち新しい命である死なない体(永遠の住家)へと変えられるのです。

◆ 信仰者の願い-神に喜ばれる者であること
わたしたち自身は、自分でこの永遠の住家を造ることは出来ません。だからこそ、天から与えられる住家を着る(永遠の命を得る)ことを望んでいます。神ご自身、わたしたちがそのような望みを抱くことを望んでおられます。その望みを満たすものが“霊”の働きです。神はわたしたちが永遠の住家に生きるものとなるよう、キリストを通して、その“霊”をお与えになりました。霊は、神からの命の保証です。
この霊に拠らない限り、わたしたちは神から離れた生活をするのみです。つまり、滅びてゆくだけの命に生きています。しかし、信仰に従って歩む者は、霊の導きに拠って生かされているのであって、目に見えるものに拠り頼むことはありません。
 信仰に拠って生きる者は、パウロのように体を離れてもよし(死んでキリストと共に生きる)、体から離れなくてもよし(地上にあって信仰に生きる)、どちらでもよいのです。いずれにせよ、死は地上の住家から天上の住家への通過点であって、信仰者の願いはただ、神に喜ばれる者(ふさわしい者)であることへの願いです。
 キリストの再臨(終末)の時、わたしたちはすべて、地上にあった時の行いの報いを受けるために神の前に立ちます。その時に問われるのは、信仰の有無です。

◆ 復活信仰に生きよう        
ダニエル書の12:1~4は、旧約で復活を扱っている数少ない箇所です。命の書にその名を記された者には、死からの復活が預言されています。それは、迫害を耐えて、信仰を守り通した者への祝福の約束です。永遠の住家を望む希望は、キリストの復活信仰において満たされます。その者には主の-*/霊の執り成しがあるからです。

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