「王の王、主の主」 ミカ 2:12~13、 ヨハネ黙示録 19:11~16  (2012.11.25)

◆ 王の王、主の主-王の職務
 昔、”キング オブ キングス”という映画がありました。王の中の王、つまり、イエス・キリストの物語です。人間的にみれば、十字架で殺された罪人がこの世で至高の権威と力をもつ王となられたのです。信じない人には真に愚かな話でも、信じる者にとって、キリストこそは自分の命を預けるに足る「王の王、主の主」です。

◆ 天上で見た幻-キリストの即位(礼拝の対象)
ヨハネ黙示録の終りの場面が近づいています。19章でヨハネは、天上での礼拝の幻を見聞きします。「ハレルヤ。救いと栄光と力とは、わたしたちの神のもの。・・」それは、神に敵対する悪の根源として象徴的に表された大淫婦(バビロニア・ローマ)を最終的に裁いた(滅ぼした)神を「アーメン、ハレルヤ」と讃え、礼拝する天上での様子です。またそこでヨハネは、「ハレルヤ、全能者であり、わたしたちの神である主が王となられた。」との王即位の宣言の言葉を聞きます。それは婚礼の喜びにたとえられる即位式です。花婿は犠牲として十字架の上で殺された子羊なるキリスト、花嫁はこのキリストに従い通した聖なる者たちです。<黙19:1~8>
 天使はヨハネに、この喜びに満ちた婚礼(キリストの即位)の様子を「書き記せ」
と命じます。「子羊の婚礼に招かれている者たちは幸いだ」 そこでヨハネはひれ伏しこの天使を礼拝しようとしますが、天使は「わたしは・・あなたたちと共にイエスに仕える者である。神を礼拝せよ」と言って、これを止めさせます。<同:10>
これまでに黙示録が記してきたことや天使がヨハネに告げてきたことは、イエス・キリストこそ、礼拝されるべき方「王の王、主の主」であることの証しです。

◆ キリストの名-誠実・真実・神の名(正義による裁き)
このキリストを言い表すのにふさわしい名は「誠実」であり、「真実」です。この王としてのキリストは正義をもって裁きをなし、そのために戦われる方です。しかし、「この方には、自分のほかはだれも知らない名が記されていた。」<同:12> とあるように、キリストは人間の知り得る範囲をはるかに超えた方でもあります。
 またヨハネが見たキリストは、血に染まった衣を身にまとっていました。それは、十字架で流された血潮を現しています。キリストは血の代価を払って(贖い)悪と戦い、これに勝利されたのです。それゆえ、キリストは「初めに言葉があった。言葉は神と共にあった。言葉は神であった。」<ヨハネ1:1> とあるように、「神の言葉」という名で呼ばれる方でもあります。<黙19:13> このキリストから出る言葉が、神ならぬ神(偶像)を礼拝する者を打ち倒します。またその権威(鉄の杖)をもって、人々を治めます。それは、恵みである神の祝福を汚す者に対しては、ブドウ酒を絞るために絞り桶を踏むように、激しく厳しい怒りとなって臨みます。
 そのようにキリストは、絶対的権威をもって正しい裁きを行使されるゆえに、「王の王、主の主」と呼ばれるのです。このキリストの権威に服する者は幸いです。

◆ 王の王、主の主-民の先頭に立つ(復興の主)
 悪をなす者(神の御心に逆らう者)にとって、この王であり、主であるキリストの裁きは、真の脅威となります。キリストを前にして逃れる道はないからです。
 しかし、人間はその裁きが自分の身に及ぶところまで来ないと、中々本気になって悔い改めるところまでいきません。旧約の預言者たちは、選ばれて神の民となったイスラエルの民が悪から正しい道に立ち帰るよう、繰り返し神の言葉をもって警告を発しました。ミカもその預言者の一人です。彼は貧しい農民出身の預言者として、身分の低い者の立場に立って、社会不正義を責め、利を貪る指導者、偽預言者を攻撃しました。「災いだ、寝床の上で悪をたくらみ 悪事を謀る者は。・・・」<ミカ2:1~2。3:2~3> そのような悪を貪る指導者に導かれる民はまことに悲惨です。
 結局イスラエルの内、悔い改めを拒んだ北王国は滅びに至り、地上から消滅しました。南王国ユダもまた犯した罪により、国は滅び、主だった民はバビロンに捕囚として連れ去られます。しかし、神の裁きの中で残された者がいます。彼らは神によって、国の復興の祝福に与ることを許されます。集められた者の先頭に彼らの王が先立って進まれます。その王であり、主こそ真の裁き主であるキリストです。

◆ 小さい者への配慮-王の裁きの基準(愛)
 主なるキリストは、終末において栄光の座に着くすべての国の民を裁くことになると予告されました。<マタイ25:31> 裁きは、羊飼いとしての王の職務です。
 羊飼いは、日中は一緒に飼っている山羊と羊を夜は分けて集めます。それぞれの体質が違うからです。それは、神の前に祝福された者と呪われた者とが分かたれることのたとえです。では、その裁きの基準となるものはどこにあるのでしょうか。
 それをイエスさまは、小さい者(貧しい者・人の助けを必要とする者)に対して、どのような対応をしたかによるのだと告げます。つまり、隣人が「飢えていたとき、のどが渇いていたとき、旅をしていたとき、裸のときに、病気のときに、牢にいたときに」 あなたはどうしたかという問いです。それは、困難な状態にある隣人に対して、あなたは無償の愛を注いだかということです。無償の愛を行った者は、裁き主であるイエスさまから、神の国を受け継ぐために分かたれ祝福されます。
 一方、小さい者を無視したり排除する者は愛に欠ける者です。その様な者が受ける報いは滅び、つまり永遠の罰です。“愛ある業”の有無が王の裁きの基準となります。わたしたちは日常生活において、どちらに焦点を当てて生きているでしょうか。

◆ 王なるキリストを信頼しよう       
 王なるキリストはわたしたちの行いの動機を見ておられます。いかに立派な行いもそこに無私の愛がなければ、それは偽善になります。わたしたちがなすべきことは、結果を期待して行動することではなく、キリストへの愛をもってすべてに対処することです。そこには「王の王、主の主」であるキリストへの信頼があります。

コメントは受け付けていません。