「ヨナのしるし」 列王記上 17:17~24 マタイ 12:38~42 (2013.4.14)

◆ ヨナのしるし-新しい命
神さまはわたしたちに何度もやり直すチャンスをくださいます。どんなに大きな失敗をしても恐れることはありません。神に立ち帰るなら、神はその人を新たに出直す力で満たしてくださいます。その具体例として、ヨナやペトロなどがいます。彼らは失敗を通して、神の無限に大きな愛を知り新しい命に満たされました。

◆ イエスを否定する者たち-しるしだけを求める人々
 イエスさまは病気の人を癒し(安息日にも)、悪霊を追い出されました。それらの業は神の僕としての“しるし”として行われました。<イザヤ42:1~4> しかし、イエスさまに敵対する者たち(ファリサイ派、律法学者・・)は、イエスさまの行う奇跡を神の子としての“しるし”とは認めず、返って神に逆らう冒涜的行為としてしか見ていません。あるいは、イエスを悪霊の頭(ベルゼブル)と見なします。
 イエスさまは木の実のたとえをもって彼らに警告します。「木の良し悪しは、その結ぶ実で分かる。・・人の口からは心にあるものが出て来る。・・あなたは自分の言葉によって裁かれる。つまり義とされ、罪ある者とされる。」<マタイ12:33~36>
 この言葉を聞いたファリサイ派の人々は、それまでイエスさまのしるしを見ているにも拘らず、「先生、しるしを見せてください。」と言います。彼らがイエスさまにしるしを求めるのは、イエスさまとの直接的な関わりを避けようとすることの現れです。それは、彼らがイエスさまを信頼せず、最初から疑っているからです。
 イエスさまの行うすべての業は、神の御心と密接に結びついています。そのイエスさまの業を否定することは、イエスさまと神との関係を認めないということです。

◆ ヨナのしるし-悔い改めを求める        
イエスさまと神との関係を否定し、ただしるしだけを求める敵対者たちに対して、イエスさまも彼らの要求を断固として拒否します。「今の時代の者たちには、決してしるしは与えられない。」<マルコ8:12> さらにマタイでは「よこしまで神に背いた時代の者たちはしるしを欲しがるが、預言者ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられない。」<マタイ12:39>とあります。このヨナのしるしこそ、世の人々が求めている救いそのものとなられる、十字架と復活のイエスを預言するものです。
神はヨナに、自国イスラエルを圧迫するニネベの町の人々が悔い改めて神に立ち帰るよう宣教せよと命じます。しかし、ヨナは神の言葉に背き全く逆方向、タルシシュへと船に乗って逃げ出しました。その船が嵐に遭遇し、ヨナは海に放り出されます。大魚に飲み込まれたヨナはその腹の中で悔い改め、三日後、陸に吐き出されました。<ヨナ2:11> これがヨナのしるしです。つまりこれは、イエスさまが十字架で殺され地に葬られ、三日後に復活することを予め告げ知らせる物語です。
ヨナは神に従いニネベの人々に悔い改めを伝えると、ヨナの意に反して彼らは悔い改めました。そこに神の深い愛があります。十字架にも神の愛が満ちています。
 
◆ 新しい命-やもめの息子の生き返り 
さて、神(救い)を見出すために「ユダヤ人はしるしを求め、ギリシャ人は知恵を探す」とパウロは言います。彼らにとって、キリストは救いとは何の関係もありません。しかし、召された者(救いに入れられた者)にとっては、ユダヤ人にはつまずきの根源、ギリシャ人には愚かでしかない十字架のイエス・キリストこそ、神の知恵であり救いである、とパウロは断言します。<Ⅰコリント1:22~23>
 しるしだけを求める人は、結局、信仰(神)を求めているのではなく実益(ご利益)だけが目当てです。しるしは自分の願いを満たす手段にしかすぎません。そういう人は、自分の意に反することが生じるとすぐに神を恨んだり、呪ったりします。
 エリヤによって、飢えから守られたやもめもそうでした。<列王記17:17~24>
やもめは一人息子と最後の一握りの小麦粉と瓶の中のわずかな油でパンを焼いて食べ、死ぬ覚悟でした。そこへエリヤがやって来て、彼の言う通りにしたところ、壷の粉は尽きることなく 瓶の油はなくならず、親子は命を長らえました。ところが、その息子は病気にかかり死んでしまいます。悲しみのあまり、やもめは「あなたは息子を死なせるために来られたのか」と神の人(預言者)であるエリヤを恨みます。

◆ 日々新たにされる-キリストが内におられる
その時、エリヤは息子を抱いて神に祈りを献げ、その命を生き返らせました。これを見たやもめは初めて、エリヤを通して神への真の悔い改めへと導かれました。
このやもめの姿は、わたしたちの信仰を写し出しています。つまり、自分に恵みのしるしが起これば、神(イエスさま)に感謝しますが、不利益なことが少しでも起こると(病気、経済破綻、人間関係の崩れ・・)、たちまち讃美を呪いに変えてしまうのです。それは、イエスさまがまだ深く内に根付いていないことの現れです。
 わたしたちに必要なのは“ヨナのしるし”を受け入れること、つまり十字架と復活のイエス・キリストを身につけることです。キリストはわたしたちを、自己満足と自己中心的に生きることを知恵とする世の力から解放します。キリストを信じて生きるとき、その人の内に復活のキリストが共におられ、新しい命に与ります。
 わたしたちが求めるべきものは、やがて消えてなくなる地上のしるしではなく、「上にあるもの」です。<コロサイ3:1> それは神と共におられるキリストです。求める者に、上なるキリストは命の糧となる聖霊を送ってくださいます。キリストはわたしたちのすべてであり、すべてのものの内におられる方です。<同:11> 

◆ キリストを着よう      
わたしたちは風にそよぐ草のように真に弱く、脆い存在です。しかし、キリストを着る(信じて生きる)ことによって、日々新たな命を得ます。世のしるしはやがて消滅しますが、ヨナのしるしである復活のキリストは永遠に存続するからです。
キリストこそ、わたしの魂を死から助け出してくださる方です。<詩116:8>

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