「交わりは、赦す心から」 創世記 45:1-15 マタイ 18:21-35 (2013.9.8)

◆ 交わりは、赦す心から-隣人
“秋深し、隣は何をする人ぞ”(芭蕉) 隣人の動向が気になるのは、隣人に関心があるからでしょう。聖書では「自分を愛するように隣人を愛しなさい。」といっています。<レビ19:18> この聖句は、「わたしは主である。」で終わります。隣人を愛するには、まず神を愛すること(神への信頼)が必要であることを教えています。

◆ 赦し-赦さない者への裁き
 神を信頼するということは、具体的には隣人の過ちや失敗を受け入れる、赦すということに繋がります。人の犯した罪を赦さない者の結末について、イエスさまは“仲間を赦さない家来”のたとえで語っておられます。<マタイ18:21~35>
 ある王が家来に貸したお金を決済しようとしました。その負債額は余りに多く(一万タラントン)、返済は不可能です。家来は王にひれ伏して返済期日の延期を願いました。憐れに思った王は、負債を帳消しにしてやります。ところが、その家来は仲間に貸した金(百デナリオン)を許さず、厳しく取り立てようとしたという話です。
「人は、兄弟がわたしに罪を犯したなら、何回赦すべきでしょうか。七回までですか。」 ペトロは自分の赦しの度量の大きさを得意げに、七回という回数でイエスさまの前に持ち出しました。しかし、イエスさまの答えは「七の七十倍」です。それは、ペトロの思いをはるかに超える(人間の赦しの限界を超える)ものでした。これは、神の人間に対する無限の赦しを言い表しています。有限な人間の赦しは、神の無限の赦しの中にあります。神の無限の赦しの中に人間の生(命)があります。
 神の赦しを得ていながら人を赦さない者は、神との交わりを断たれてしまいます。

◆ 神の赦し-交わりの前提
このたとえで語られていることは、神の赦しが人と人との交わりを根本的に成り立たせているということでしょう。この神の赦しを知らなければ、わたしたち人間の交わりは、切りのない裁き合いとなってしまいます。隣人は平行線のままです。
この隣人の間における赦しの限界を打ち破るための祈りが、イエスさまが弟子たちに教えた“主の祈り”の中にあります。それは、“わたしたちに罪を犯した者を赦しましたから、わたしたちの犯した罪をお赦し下さい。”という一節です。人間相互の赦しが可能となるのは、神がわたしの犯した罪を赦して下さっているからです。
この赦しに先立つのは、憐れみ(愛)です。憐れむ心がなれば赦しもありません。イエスさまは周りに集まってくる群集に対して、深い憐れみを抱かれました。<マタイ14:14> それは、苦しむ人、迷いの中にある人、悲しむ人等に対して深く共感する思いです。神の人間に対する憐れみは、無条件の恵みとしてイエスさまの御業(十字架)において現されました。十字架は、神の無条件の赦しを示しています。
 ですから、わたしたちは“主の祈り”を祈ることにおいて、神の赦しの中に置かれている恵みに与っています。神の赦しの中に、隣人との交わりの回復があります。

◆ ヨセフの赦し-和解
この交わりの回復には、神の憐れみが介在しています。そのことを伝えているのが、本日の創世記の箇所です。イスラエル人のヨセフはエジプトで宰相に上りつめた人物です。しかし、そこに至るまでの道のりは苦難の連続でした。そもそもヤコブの溺愛を受けて育ったヨセフは、兄たちの恨みを買い、まだ少年の頃エジプトに奴隷として売られてしまったのです。しかしその地で、夢解きの賜物ゆえにヨセフはファラオの全財産の管理を任されるようになりました。そこへ、長く飢饉状態にあるイスラエルの地から、ヨセフの兄弟たちが食料を求めてエジプトやって来ます。
 最初、ヨセフはエジプトの偉い高官として、兄たちの前に立ちます。兄たちは、まさかその人物が弟のヨセフとは気づきません。折を見て、ヨセフの方から名乗り出ました。兄たちは驚くと共に、かつての自分たちの仕業ゆえにヨセフを恐れます。しかし、ヨセフは兄たちを完全に赦しました。「わたしをここに遣わしたのは、あなたたちではなく、神です。」<創世記45:8> ここに、ヨセフと兄たちとの交わりが回復します。ヨセフの売られた積年の憎しみは、神への感謝に代えられました。
 神の憐れみ―赦し―和解―交わりへの回復は、神の恵みとして連鎖しています。
  
◆ 交わりの回復-隣人となる
この神の憐れみを通して、人間の真の交わりが回復します。今まで近くにいても、全く無関心であったり、意識的に距離を置いていた人が、自分と関わりのある人としての価値をもつようになる、それが“隣人”です。隣人とは始めから存在する者ではなく、“隣人となる”存在です。そうなるのは、他者への憐れみがあるからです。
 隣人となることについて“善いサマリア人”のたとえがあります。<ルカ10:25~37> 強盗に襲われたユダヤ人に対し、神に仕える同胞の祭司やレビ人は関わりを恐れ(血に触れることで汚れる)、傍らを通り過ぎて行きます。次にやって来たサマリア人(ユダヤ人と敵対関係にある)は、その人を手厚く介護し、宿屋まで送り届けました。イエスさまは、この祭司、レビ人、サマリア人の内、誰が襲われた人の隣人となったかと問うた時、律法学者は「その人を助けた人です。」と即座に答えます。そこでイエスさまは言われました。「行って、あなたも同じようにしなさい。」  
隣人とは何かと問うとき、それは定義を知ることではなく、関わる人に寄り添うことを意味しています。そこから真の交わりが始まります。赦しにおいても同様です。赦しとは何かではなく、神にあって人を赦すところから交わりが回復します。
 
◆ 赦しを実践してみよう   
許容範囲で人を赦すことは誰にでも出来ます。しかし、これだけは赦せないと思うことに関しては、赦しは不可能に近い問題です。しかしそこで、神の赦しの無限さを思うなら、世に赦せないというものはないはずです。それでも赦せないことは、神にお任せすればよいのであって、まずは赦しを実践するところから始めましょう。

コメントは受け付けていません。