「霊が教える言葉」 箴言 2:1-9 Ⅰコリント 2:6-16 (2014.2.16)

◆ 知識を生かす知恵-霊が教える言葉
以前、“お婆ちゃんの知恵袋”という本がベストセラーになったことがありました。知恵と知識は人が生きていく上で必要なものですが、知識がどんなに増してもそれが知恵になるとは限りません。知識を生かすには正しい知恵が必要です。聖書においては知恵と霊は同じです。神の霊が働く時、知恵が人を守り、正しい道を導きます。

◆ 知恵の初め-主を畏れること
 聖書は、イエスさまの成長過程を「知恵に満ち」<ルカ2:40>、「知恵が増し」<同2:52>という様に言い表しています。そして、この知恵には神の恵みが伴い、知恵が増し加わることによって、イエスさまは神と人から愛されたとあります。
 このように、知恵とは人の生(命)を根本的に育むのに必要な養分のようなものということができるでしょう。では、その知恵はどこから来るのでしょうか。箴言1章7節に「主を畏れることは知恵の初め。」とあります。つまり、知恵は神からの賜物であると聖書は教えています。そこが、この世の知恵との根本的な違いです。
 この世の知恵はノウハウ(経験や知識の用い方)を教えるものですが、聖書のいう知恵とは、神の祝福に至る道を示すものです。それは、神への信仰によってもたらされる恵みです。この知恵が不条理な世にあって、人を常に正しく導きます。
 箴言2:1-9における、“父の諭し”の父というのは神のことであって、これは単なる家庭訓ではありません。「知恵に耳を傾け・・宝物を求めるようにそれを捜すなら、あなたは主を畏れることを悟り 神を知ることに到達するであろう。知恵を授けるのは主。」とあります。<同:3-6> 私たちを生かしているのは、神から来る知恵です。

◆ 知恵を語る-イエスのたとえ 
神の知恵は、人間の側による知識の蓄積によって得られるものではありません。どれだけ神についての知識があろうとも(百科事典的、インターネット検索等)、信仰がなければ、人は神について知ることは出来ません。つまり、救いは単に人間的知識によっても知恵によっても得られないということです。それが、神の神秘です。
 それゆえ、イエスさまは人に神の国(神の救い)について教える時、多くは“たとえ”を用いて語られました。その一つに“種をまく人のたとえ”があります。<マルコ4:1-9> 誰が聞いてもすぐに分かる物語です。“一人の農夫が畑で、手に掴んだ種をぱらぱらとまいていた。その中のある種は道端に落ち、鳥が食べてしまった。また他の種は石ころだらけの地に転がり出て、日が昇ると焼けて枯れてしまった。さらに別の種は茨に紛れ込み、芽は出したものの他の雑草に養分をとられ、実を結ばなかった。そして、良い地(畑そのもの)に落ちた種は芽を出し実を結び、30倍、60倍、100倍になった。”このたとえはだれでも聞けば分かるでしょう。
 しかし、ここで語られているのは神の国の神秘です。だれもが神の言葉を聞くことは出来、救いも約束されています。しかし、聞いて救われるのは僅かな人です。

◆ 神の知恵-キリストの十字架
なぜでしょうか。人はこの話を聞いて、まかれた種(御言葉)に対し、自分の心を道端(心ここにあらず)に、石地(野次馬的興味本位)に、茨(雑念の中)にたとえるでしょう。そして、良い地(悔い改める心)にならねばと思うでしょう。
しかし、このイエスさまのたとえの中心は、すでに種はまかれているというところにあります。この種はイエスさまそのものです。イエスさまはすでに世に来られた、つまり神の国はすでに来ているのです。それを知ることが知恵に他なりません。 
このたとえは信仰をもって初めて得られる、救いに至る知恵の物語です。ただ聞くだけならこのたとえ話しは、こうあらねばならないという単なる道徳の話で終わってしまいます。このたとえの真意を理解するのは、イエスさまに聴き従う者です。
 では、このイエスさまのたとえを理解する鍵はどこにあるのでしょうか。これを理解するには、わたしたちはイエス・キリストの十字架の意味を理解する必要があります。それは、神は御自分の栄光の御業(救い)を現すために、イエスさまを十字架につけたという事実です。神は全世界という畑に実り(救い)をもたらすために、すでに種をまかれました。この十字架に救いをもたらす神の知恵が隠されています。

◆ 霊が教える言葉-真の知恵 
パウロは「わたしたちは、信仰に成熟した人たちの間では知恵を語ります。」と語ります。<Ⅰコリント2:6> コリント教会の一部の熱狂的な信徒たちは、自分たちの信仰は完成しており、すでに霊の人となっていると信じていました。それに対してパウロは、人間の知恵ではなく神の知恵を明らかにします。すなわち、キリストの十字架にこそ神の知恵が現されているということです。十字架の死から復活したキリストの霊が、救いに至る知恵となって人を導く、これを信じるのが信仰です。
 パウロは自分の生き方について、「わたしは、自分の置かれた境遇に満足することを習い覚えたのです。貧しく暮らすすべも、豊に暮らすすべも知っています。・・いついかなる場合にも対処する秘訣を授かっています。」と語ります。<フィリピ4:11-12> これは信仰によって与えられた、知恵の実りとしての言葉です。キリストの霊すなわち知恵の言葉が、パウロの生涯をいつも強め、喜びで満たしました。
 キリストを十字架につけたのは、神の知恵を理解しない世の支配者(悪魔)たちです。また、福音を曲げて理解する者たちは、この十字架を拒絶し世を惑わします。
しかし、神の知恵を受け入れる者たちは、いつもキリストの思いを抱いています。

◆ 霊が教える言葉(愛)を求めよう
では、キリストの思いとは何でしょうか。わたしたちはいつもそこに立ち帰ります。それは、自ら福音の種となって、十字架につかれたキリストの愛です。この愛が信じる者に神の知恵を与えます。「知識は人を高ぶらせるが、愛は造り上げる。」とあります。<Ⅰコリント8:1> 霊が教える言葉、愛溢れる知恵を求めましょう。

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