「十字架を囲む人々」 哀歌5:15~22、マタイ27:32~56 2013.3.24

◆ 十字架を囲む人々-十字架への道
人は一人で生きてきたのではありません。一人の人の人生には、実に多くの人が直接、間接に関わっています。そして、その人の人生が祝福されるかどうかは、その人がどういう幸せな出会いをもったか、ということと深く関わってきます。その中で、最も確かで永続する幸福な出会いは、イエスさまとの直接的出会いです。

◆ 容認された十字架刑-自ら選び取った受難の道(神の御心の実現)
 ゲッセマネで祈るイエスさまのところに、弟子の一人ユダが導き手となって、多くの捕り手を連れてやって来ます。そして暗闇の中、裏切るユダは逮捕すべきイエスを接吻をもって知らせました。十字架に至る受難の道をイエスさまは、自ら選び取られます。弟子たちはイエスさまを見捨てて逃げ去りました。<マタイ26:56>
 捕らえられたイエスさまは、その夜、即最高法院での裁きを受けます。罪状の証言が一致せず黙するイエスに大祭司カイアファは「お前は神の子、メシアなのか。」と問うたとき、イエスさまはそれを明確に肯定しました。それを神への決定的冒瀆としてイエスさまは、翌朝ローマ総督ポンテオ・ピラトに引き渡されます。ユダヤ教指導者たちは、総督の名を借りて自分たちには下せない死刑判決を下すのです。
 総督にはこの問題はローマに敵対する政治的なものではなく、ユダヤ民族内の宗教問題であることが分かっていました。それゆえ、総督自身はイエスを釈放する意向でしたが、ユダヤの群集の騒動を恐れ、ついにイエスの十字架を容認します。
 ここでわたしたちが知っておくべきことは、イエスさまは人間の力に屈したのではないということです。それは、神の御心(人間の救い)を実現するためでした。

◆ 十字架に関わる人々-死に至るまで(偶然・無関心・興味本位・悪意・・)        
この十字架刑の執行されるゴルゴタの丘までの道行きで、多くの人間が様々な形でイエスさまと関わっています。その関わり方は、決して人事ではありません。
 十字架にかけられる者は、自ら十字架の横木を担がされて刑場まで行きます。縦木はそこにあります。判決後の鞭打ちですでに半死半生の状態にあったイエスさまにはすでに横木を担ぐ体力はありませんでした。たまたまそこに居合わせたキレネ人シモンという者に兵士はその横木を無理やり担がせます。彼は過ぎ越しの祭りを祝うためにエルサレムに来ていたのです。 刑場での十字架の下では、イエスさまの服を兵士たちがくじ引きで分けています。彼らはイエスさまの死の苦しみに全く無関心です。 通りかかった人々はイエスを見上げてののしります。「神の子なら、自分を救ってみろ。十字架から降りて来い。」 イエスの死を確かめにやって来た祭司長や律法学者、長老たちも同じように侮辱します。「他人は救ったのに自分は救えないイスラエルの王、今すぐ十字架から降りるがいい。そうすれば信じてやろう。神に救ってもらえ。」 共に十字架につけられた強盗たちも、同じようにののしります。
 十字架を、偶然居合わせた人、無関心、興味本位、悪意に満ちた人間が囲みます。
 
◆ 最期の叫び-死を見届けた人(異邦人の告白・従った婦人たち)
これが、神の救いをもたらすために世に遣わされたイエスさまの最期です。肉体の痛みはもちろんのこと、救いの対象となるべき人間が神の子をあらん限りの仕方で侮辱し、勝ち誇っています。これこそ、イエスさまが地上で飲むべき杯でした。
 イエスさまが十字架につけられたのは午前9時です。<マルコ15:25> 昼の12時に全地は暗くなり3時ごろ、イエスさまは十字架上で「エリ、エリ、レマ、サバクタニ(わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか)」との悲痛な叫び声をあげて、息を引き取られました。イエスさまの死は全き孤独の中での死です。
 マタイは、イエスさまが死を迎えるときの様子を終末的に伝えています。神殿の幕が上から下まで真っ二つに裂けた、地震が起こり岩が裂けた、墓が開いて眠りについていた多くの聖なる者の体が生き返った、復活した者が聖なる都に入り、多くの人々に現れた。これら全ては旧約が記すように神のなせる業として起こりました。
 十字架を見張っていた百人隊長とその部下たちは、そのただならぬ様子を直に目撃し恐れました。この異邦人たちは「本当にこの人は神の子だった」と告白します。また、イエスさまに従って来た婦人たちは、遠くから十字架を見守っていました。

◆ 哀しみの歌-人間の罪(すべての人間)
このようにしてイエスさまの十字架は様々な立場の人間が見守る中、哀しみの内に終わりを迎えました。しかし、その死の中にすでに救いの芽生えが示されています。それは、イエスさまの死が神と人間を隔てる幕を切り開いたということです。その死は、人間に救いをもたらす終末の時がここから始まったことのしるしです。
 旧約の哀歌(エーカー・なぜ)は、現実の深刻な罪と悲惨な悩みの中に、なお神の義と慈しみを見出し、神を仰ごうとする信仰を告白しています。哀歌はイスラエルを憐れむ神の愛の発見と、罪を裁かれる神の正しさへの服従の姿を描き出します。
人間の哀しみは、全ての人間は罪から逃れられずに生きているということです。
 この哀しみから逃れる道は、ただ一つ、人間が神に立ち帰ることです。イエスさまの十字架はまさにそのためにあります。それは「滅んでいく者にとっては愚かなもの、救われる者には神の力です。」<Ⅰコリント1:18> 人間の知恵で神を知ることは出来ません。人間にとっての救いは神の愚かさ、つまり十字架にあります。
十字架はユダヤ人にはつまずきとなり、ギリシャ人はこれを愚かなことと笑います。しかし、召された者(信じる者)にとっては、十字架こそが救いに至る道です。

◆ 今こそ、十字架の前に悔い改めよう      
悔い改めて、神に立ち帰る機会を神はいつでも備えていてくださいます。思い立った“今”がそのときです。そこに至るまでが至難の業ですが、そのときを神は忍耐して待っておられます。そのしるしが十字架です。何かをせよ、というのではありません。今日より始まる受難週は、十字架を見上げ、悔い改める最適のときです。

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