「恐れと喜び」 エゼキエル36:22~28 マタイ28:1~10 (2013.3.31)

◆ 恐れと喜び-キリストの復活
初めから適わぬことと願っていたことが適えられて、逆にびっくりすることがあります。時にそれは、恐れを伴う喜びとなります。イエスさまの復活は、それを目の当たりにした者にとっても、恐れが先立つ信じ難い出来事でした。がからこそ、そこに復活の真実があり、希望があります。それは神のなせる業だからです。

◆ 復活の朝-空の墓(復活証言 その1)
 イエスさまが十字架で息を引き取られたのは午後の3時ごろです。<マタイ27:46> 日没から安息日(土曜日)が始まります。それまでに遺体を十字架から下ろし、急いで墓に収めなければなりません。十分な葬りは出来なかったことでしょう。それで、イエスさまに従って来た何人かの婦人達はもう一度丁寧に葬り直すために、安息日が終わる週の初めの日の明け方早く、墓に出かけました。(4福音書)
 すると、大きな地震か起こり、白く輝く衣を着た天使が現れ、墓の重い石の蓋を転がしその上に座りました。墓を見張っていた番兵たちは、恐ろしさのあまり震え上がって死人にようになったとマタイは記します。<28:4> 天使は婦人たちに、「恐れることはない。十字架につけられたイエスはここにはいない。かねての予告どおり、復活なさった。」とイエスさまの復活を告げました。墓の中にイエスさまを捜しても無駄だということです。そして、弟子たちにイエスさまの復活と、イエスさまは先にガリラヤに行かれ、そこでお目にかかれると告げよ、と命じられました。
 墓が空であったということを通して、マタイはイエスさまの復活を証言しています。その証言を最初に弟子たちにもたらしたのは、イエスに従った婦人たちでした。

◆ イエスの顕現-恐れと喜び(復活証言 その2)        
 婦人たちは、この天使の言葉に「恐れながらも大いに喜び、急いで墓を立ち去り、弟子たちに知らせるために走って行った。」とあります。<マタイ28:8> 突然の天使の出現とその告知に婦人たちはまず恐れをなしますが、その恐れはすぐに喜びに変わります。墓に遺体がないことが、イエスさまの復活のしるしであることが分かったからです。弟子たちのところに駆け出す婦人たちの前に、今度は復活されたイエスさまが「おはよう(シャローム)」と声をかけ、姿を現されました。<同:9>
 このイエスさまの顕現こそ、地上にあったとき予告された十字架での死の後、三日目に復活するという言葉の真実性を現しています。彼女たちにとっては、十字架での死がイエスさまのこの世でのすべてです。だからこそ、哀しみの内にある彼女たちを慰める唯一の行為は、墓の中のイエスさまを納得のいく形で葬ることでした。
 その悲壮な思いを、良い意味で全く予想外に裏切ったのがイエスさまの復活の出来事です。天使の言葉通りにイエスさまは復活され、その姿を婦人たちに現されました。彼女たちは思わず、「イエスさまの足を抱き、ひれ伏しました。」<同:9> マタイは婦人たちが実際にイエスさまに触れた経験を通しても復活を証言しています。
 
◆ イエスとの共死共生-洗礼の出来事(復活証言 その3) 
 イエスさまの復活は、このようにマタイでは空の墓と復活のイエスさまの足に触れるという物質的な事柄として証言されています。しかし、それは十字架の出来事を実際に体験した人たちによる証言です。では、それ以後の人たちに対する復活証言はどこにあるのでしょうか。それは、信仰によって与る洗礼(聖霊)体験です。
 キリスト者となる者は、その証しとして洗礼を受けます。洗礼とは文字通りに言うならば浸礼、つまり水に沈むこと-死を意味します。そして、水から上がることによって新しい命に生きる者とされるのです。この死と生に伴ってくださるのがイエス・キリストです。キリスト者にとって、キリストと共に死に、キリストと共に生きる“共死共生”こそが、キリストの復活を証しする生きた出来事となります。
 婦人たちは、最初、墓の中にキリストを捜しました。それは、キリストを過去の人として追憶の対象とすることです。そこには未来への希望はありません。哀しみと懐かしさだけに浸る後ろ向きの人生です。しかし、復活のキリストに出会うということは、未来の希望に生かされるということです。それは恐れではなく喜びです。
洗礼を受けるということは、イエスさまの復活を信じることを前提としています。

◆ 栄光の回復宣言-新しい心と新しい霊の注ぎ(復活の源なる神)
復活を信じる者は、イエスさまと共に神の栄光に与ります。聖書はこの栄光の源こそ神に他ならず、神が栄光を回復すると語ります。<エゼキエル36:22~28>
 かつて、神に背いたイスラエルはバビロンに滅ぼされ、かの地に捕囚として連れ去られました。神の後ろ盾を失ったイスラエルは絶望の淵に追いやられます。その時代、希望を失った同胞に神による栄光回復の宣言を語ったのがエゼキエルです。
 神は暗闇に生きるイスラエルにもう一度、新しい心を与え、新しい霊(清い水)を注ぐと約束されます。それは、神が人間を内側から変える行為です。人間の回復(救い)は清め、すなわち悔い改めから始まります。それは、神ご自身による、ご自身の栄光の回復を意味するものです。そこに、人間の救いの確かさがあります。
 新しいイスラエル(教会)の出発は、まずそこに集う者が聖められることから始まります。神の前での汚れは死を、清めは生を意味します。だからこそ、命を得たいと願う者は、罪に死ぬことを求められるのです。わたしたちがその死と新たな生に与るために復活の源である神は、イエスさまを通して洗礼の道を用意されました。
 洗礼に与って神に栄光を帰すところに、回復された者(救い)の祝福があります。

◆ 出エジプトしよう-神の恵みを証しする      
かつて、神は奴隷であったイスラエルの民をエジプトから導き出されました。今、神はキリストの十字架と復活を通して新しいイスラエルの民となる教会(礼拝共同体)を罪の世から導き出し、立てられました。復活を信じる者は、この神の恵みを証しする者です。罪から解放されて、共に復活伸仰を固く保ち続けましょう。

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