「聖霊の注ぎ」 ヨエル 2:23~3:2 使徒言行録 2:1~11 (2013.5.19)

◆ 聖霊の注ぎ-聖霊の賜物
どんな人にも何らかの取り得があります。聖書でいう“賜物”です。ないと思っている人に聖書は、「求めよ、探せ、叩け」と教えています。<マタイ7:7> その求めるものの中で、最も大切なのは“聖霊(神の力)”です。なぜなら、聖霊はわたしたちを内側から変える力があるからです。その力は、イエスさまにあります。

◆ イエスにおける聖霊の働き-主の僕の働きの預言
 イエスさまは安息日に会堂に入り、その日が一切の仕事(医療行為も含む)を禁じている安息日であるにも関わらず、片手の萎えた人の手を癒されました。しかし、そのことで厳格に律法を守るファリサイ派の人々は、イエス殺害を計画し始めます。イエスさまは立ち去り、さらに多くの病人を癒されました。<マタイ12;9~14>
 このイエスさまの癒しは、旧約においてイザヤの預言していたことが実現したことの現われです。イザヤは42章において、神の僕としてのメシア(救い主)の召命について預言しています。その僕には神の霊(聖霊)が臨みます。僕は世にあってその存在を声高らかに知らしめることなく、傷ついた者を断つことなく、消えそうな命の根を止めることをしません。ただ、神の裁きを世の人々に明らかにします。
 この神の僕の預言は、イエス・キリストの出現を指しています。彼の上には、神の力である聖霊が注がれます。このイエスにある聖霊の働きが、多くの病人の癒しや悪霊追い出しの原動力です。この聖霊の働きは、律法の定めの枠を超えています。
 しかし、イエスさまを神の僕と認めない人々は、彼の働きを神を冒瀆する悪霊の行為とみなし、彼を早く抹殺することが神の御心であると信じて疑わないのです。

◆ イエスの昇天-聖霊降臨の約束       
イエスさまに注がれた神の力について旧約は、ヨエル書を通して、その聖霊の働きがイスラエルのすべての人々(息子・娘・老人・若者・奴隷)に注がれる時が来る、と預言しています。<ヨエル3:1,2> それは神がイスラエルを回復する時です。
聖書はイスラエルを、全人類を代表する選ばれた民族としています。つまり、イスラエルに注がれる聖霊は、世のすべての人々に注がれることになるとの預言です。 
イエスさまは復活し昇天される際、弟子たちにこの聖霊の注ぎを約束されました。それは、ご自身が天に昇り神の座につかれるときです。聖霊は天の御座からを注ぎ出され、弟子たちを覆います。それまで都(エルサレム)にとどまって、その時を待ちなさいとイエスは言われました。<ルカ24:49> これが聖霊降臨の約束です。
 聖霊が注がれる時、それはイエスさまの復活から50日目のことです。(ギリシャ語で50をペンテコステという。またユダヤ人にとっては、過越しの祭りから50日目を小麦の刈り入祭り、即ち五旬祭という)このペンテコステの出来事を通して世に教会が誕生します。そして、教会は聖霊を受けて神の僕としての働きを継承していきます。イエスさまは、教会に集い信仰に生きる者の上に聖霊として臨まれます。

◆ ペンテコステの日-聖霊降臨の成就
さて、弟子たち一同はイエスさまの命じられるまま都にとどまり、聖霊の注ぎの時を待ちつつ、日々一室で祈りを合わせていました。そして、ついにイエスさまの復活から50日目(ペンテコステ)、聖霊の注ぎが成就する日が来ます。その聖霊降臨の様子を聖書は、聴覚的・視覚的に具体的に語ります。「突然、激しい風が吹いてくるような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。」と。<使徒2:2,3>
 風は神の息です。この神の息は天地万物創造の神の力そのものです。<創1:1>それは竜巻襲来のような凄まじい光景だったのでしょう。竜巻はあらゆるもの空に巻き上げていきますが、聖霊は燃え盛る火のようになって弟子たちの上に降り、一人一人を覆い尽くした(とどまった)と聖書は記しています。これが、ヨエルによって預言された聖霊の満たしのときであり、イエスさまが約束された聖霊降臨のときの様子です。ヨエルが預言した霊の注ぎは、預言・夢・幻となって人々に新たに生きる力を与え、喜びを再発見させます。そのとき人は神の僕として、新たに造り変えられます。聖霊の満たしは、一同の上にただならぬ出来事を引き起こしました。
 
◆ 聖霊降臨のしるし-人々の反応
この聖霊降臨の出来事において特筆すべきことは、言葉のしるしが伴うことです。聖霊に満たされた者たち一同は、一斉に「“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話し出し」た、とあります。<使徒2:4> これは多言奇跡といわれるものです。
 ペンテコステの日はユダヤ三大祭り(過越し祭・五旬祭・仮庵祭)の一つです。その日、エルサレムには大勢の人々が参拝のために集まります。建物の一角で突然、物凄い音が響き渡り、驚いた人々がやって来ました。さらに驚いたのは、音のした部屋から多くの異なる言葉が聞こえ、聞く者すべてがその言葉を理解したということです。当時、世界中から帰って来てエルサレムに住み着いた多くのディアスポラ(離散の民)の人たちがいました。それぞれ出身地の国の言葉は違います。その異なる多くの言葉を、ガリラヤ出身のイエスの弟子たちが話していたのです。人々はあっけにとられ、驚き怪しみ、とまどいました。しかし、その話す言葉の内容は共通しています、言葉はどうあれ、彼らは自分の国の言葉で「神の偉大な業」について聞いたのです。それは、キリストの十字架と復活による神の救いについてでした。
 聖霊の注ぎを受けて語られる教会の言葉は、全世界において共通しています。

◆ すでに降った聖霊-あなたは聖霊を受けているか      
 ダビデは自分の犯した罪を認め、心から悔いて霊による清めを神に祈り求めました。聖霊が働く時、わたしたちは心から神へと向かう者へと変えられます。すでにキリストを通して、聖霊は世に降っています。聖霊は御言葉に生きる者に伴い、導きを与えます。わたしたちは、日々、聖霊を祈り求める生活をしているでしょうか。

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