「真の神に立ち帰れ」 エゼキエル 18:25~32 使徒言行録 17:22~34 (2013.6.2)

◆ 真の神に立ち帰れ-悔い改めの使信
詩篇25:4(ダビデの歌)に「主よ、あなたの道をわたしに示し あなたに従う道を教えてください。」とあります。8千mあれ、800mの山であれ、ガイドを無視すれば道に迷い、即遭難につながります。聖書が教えていることは、人間が願う平安は真の神の内にあるということです。パウロは常に、その神の道について語ります。

◆ ヨーロッパ伝道の中で-偶像の町アテネ
 パウロは二回目の伝道旅行の中で、ある夜、「マケドニア州に渡って来て、わたしたちを救ってください」という幻を見ました。<使徒16:9> それが、パウロのヨーロッパ伝道のきっかけになります。それはフィリピの町から始まり、テサロニケ、ペレア、アテネ、コリントへと続く伝道の旅でした。どこへ行っても語るべき使信は唯一つです。そしてその使信が、行く先々で騒動と迫害を引き起こします。
 では、その使信とはどういうものだったでしょうか。それは、十字架の死より復活したメシア(救い主)であるイエス・キリストとそのキリストの神についてです。
 伝道した町の一つアテネは、アクロポリスの丘を中心に発展したこの町で、政治・文化・経済において当時世界の中心をなしています。その丘にはアテネ(女神)をまつるパルテノン神殿が聳えていました。そのアテネの町は数多くの偶像に満ちた町であり、いたるところに偶像が祭られています。パウロは、情報交換の場であるアテネの広場で、居合わせた人々と毎日論じ合っていました。その内に、人々はパウロの目新しい話を聞くために、彼をアレオパゴスという場所に連れて行きます。

◆ パウロの指し示す神-イエス・キリストの神       
 アテネの人々の興味は、人と議論することであり、結論を求めているわけではありませんでした。ユダヤの地からやって来たパウロは、アテネの町でも“復活”という今まで誰も聞いた事もない話を始め、それが人々の興味を惹きました。そこで、改めてパウロから直接、何を論じているのかを聞くために人々は広場に集まります。   
パウロは、まずアテネの町の印象から語り始めました。それは、この町の人々は“信仰があつい”ということです。それは、偶像をどう見るかで肯定的にも否定的(皮肉)にもとれる言葉です。町のいたる所に偶像が立っていたからです。中には、「知られざる神に」と刻まれた祭壇までありました。パウロはこの「知られざる神」を、偶像の神しか知らなかった人々に真の神について教える絶好の材料として取り上げます。それは人間が金や銀、石などで作った神、神殿に収められる神ではなく、命と息を持った生きた人間を造った天地創造の神です。かつて人間は無知ゆえに真の神を知らずにいました。しかし、時至って、すべての人が神に立ち帰って生きるようになるために、神は一人の人を世に遣わされました。それがキリストです。
 このキリストにおいて、神はその御心を具体的に明らかにされました。それは、「わたしはだれの死をも喜ばない。」<エゼキエル18:32> という憐れみの心です。

◆ 悔い改めの使信-荒れ野で叫ぶ声
それは、神に対して背信を繰り返すイスラエルの民に対して語られた言葉です。神は民が犯す罪に対して裁きをもって臨みますが、憐れみが(愛)がその前提にあります。それゆえ、神が人に求めるのは、神に「立ち帰って生きる」ことです。
 人が神に立ち帰るには、その前に自分を中心にした生き方を悔い改める必要があります。悔い改めるとは、生きる方向を神中心にした生活に転換することです。立ち帰るのが先か、悔い改めるのが先かは問題ではありません。真の神を第一とする者にとっては、神に立ち帰ることと悔い改めることは同じことになるからです。
 イエスさまは宣教(神の国を宣べ伝える)にあたり、最初に「悔い改めよ。天の国は近づいた」<マタイ4:17>と宣言されました。この宣言に先立ち、全く同じ言葉を人々に告げ知らせた人物がいます。旧約の預言者のような風貌をした洗礼者ヨハネです。彼は人里遠く離れたユダヤの荒れ地で、悔い改めの使信を人々に叫んでいました。「悔い改めよ。天の国は近づいた」<同3:2> この使信に目覚めた人々が、ユダヤ全土からヨハネの下にやってきて罪を告白し、彼から洗礼を受けました。
 それは、あらかじめ神によって備えられた救いの業の前触れとなる出来事です。
 
◆ 信仰に入る者-神の恵みに与る少数者
 ヨハネは悔い改めにふさわしい実を結ばない者は神の怒りに触れ、滅ぼされると厳しい裁きを人々に告げます。しかし、イエスさまは同じメッセージを通して、神の赦しを使信の中心に据えました。この赦しこそ、神がキリストにおいて成就した出来事です。つまり、神は、御子イエスを十字架につけて殺した人間を、イエスの復活おいて、赦すと宣言されたのです。人の犯した罪は既に赦されました。しかし、この赦しの宣言を受け入れることが出来るのは、悔い改めた者のみです。それは、暗闇に閉じこもって居る者が、窓を開けて初めて外が晴れていることを知るようなものです。その閉じた窓を外から叩いているのがイエスさまです。<黙3:19>
 パウロがアレオパゴスでアテネの人々に伝えたのは、このイエス・キリストの復活による救いの出来事であり、そのキリストの父なる神に他なりません。そして、その結果は? パウロのアテネ伝道は失敗であったといわれます。死者の復活の話しを聞いて、ある人はあざ笑い、他の人は、また今度聞くと言って信じようとしなかったからです。パウロは失意の内に、その場を立ち去りました。しかし、彼の言葉を聞いて信仰に入いり、神の招きに応じる者も何人かはいました。<使徒14:34>
 
◆ あなたはいつ神に立ち帰るか      
 神の言葉は礼拝で語られ、聖書の中に満ちています。神に立ち帰る機会はいつでも与えられています。では、わたしたちが本気になって神に立ち帰るのは、いつでしょうか。それは真の神と出合う時であり、復活イエスさまの声がわたしたちの心に響く時です。その日は既に来ています。共に神の招きを信じ、受け入れましょう。

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