「霊は人を守り導く」 出エジプト 14:15-22 マルコ 1:9-11 (2014.1.12)

◆ 何が人を守り導くか?
人生を振り返ってみて、あの時は良く守られて来たなぁと思う経験は、誰にでも一つや二つあるかと思います。それらは、理屈を超えた恵みの経験としか言いようのないものです。信仰をもって解釈するなら、そこに神の摂理(恵み)が働いたということになるでしょう。この神の恵みにどう応えて生きるかが問われています。

◆ イエスの洗礼-人間宣言(神の御心を世に伝えるため)
イエスさまの生涯(誕生から洗礼、十字架に至る道のり)においても、その時々の状況の中で、わたしたちと同じように神の守りと導きがあったことでしょう。
 洗礼とは罪に死に、新しい命に生きることを意味する宗教的儀式です。イエスさまご自身は洗礼を受ける必要のない方でした。何故なら神に対して何の罪も犯していないからです。しかし、イエスさまの洗礼は文字通り、罪に死んで復活することの先触れとなるものでした。では、イエスさまはなぜ、洗礼を受けられたのでしょうか。それは罪の中にあってもがいている私たちを救い出すために他なりません。
 さて、わたしたちは神に背く罪の怖さに中々気付きません。気付くのは、結果として何らかの裁きを受けた時です。私たちが滅びることのない様、神は聖書や預言者などを通して何度も警告しておられます。しかし、人間には御言葉だけで従順になれない傲慢さ(罪)があります。それでも、神の愛は人間救済計画を諦めることなく、これを実現するため、最後の手段として御子を人間の姿で世に遣わされました。
 そういう意味で、イエスさまが洗礼を受けられたのは、ご自身による“人間宣言”です。神の御心を世の人々に伝えるために、イエスさまは人となられたのです。

◆ イエスに与えられた使命-十字架に向かう宣教(神の御心に添う公生涯) 
 イエスさまが宣教の業を始める(神の国を宣べ伝える)と、周りにはいつも多くの人々が集まりました。イエスさまの言動に、人々は愛を感じとったのでしょう。イエスさまの教えは誰にも分かりやすく、必要に応じてあらゆる病を癒し、悪霊を追い出されました。宗教家にように、知識や権威を振りかざすこともありません。
 しかし、イエスさまの宣教の働きの目的はあくまでも神の栄光を現すこと、つまり罪の赦しの宣言にあります。それは、神のみにある権威です。この権威をイエスさまが授かったのは、ヨルダン川でヨハネから洗礼を受けられた時です。水から上がるとすぐ、イエスさまの上に天から霊が降り、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が天からあったと聖書は記します。<マルコ1:11>
 この時から、イエスさまの公生涯が始まりました。つまり、神の使命を果たす働きです。その使命は世にあって、人間の罪を滅ぼすための十字架への道に連なります。イエスさまは十字架において、人間の罪を代わって負い、裁きを受けられるのです。しかし、この贖いの業は、人間としてのイエスさまの力だけではありません。
 イエスさまの十字架に至る公の生涯は、まさしく霊に守り導かれる日々でした。
  
◆ 霊の注ぎ-神の力(超自然的エネルギー)
 この霊というのは、即ち見えざる神の力です。神はそのエネルギーを自然世界にも働きかけます。出エジプト記における葦の海(紅海)の奇跡もその一例です。
 長くエジプトに寄留(400年)したイスラエルの民は、生命力の強さで人口を増し、エジプトの脅威となりました。そのため、ファラオはイスラエルの民を奴隷として苦役に従事させます。その苦しさに耐えかねた民の叫びを聞かれた神は、時至って、モーセを指導者として民に出エジプトを決行させました。当時、最強の軍隊を持つエジプトから、武器を持たない寄せ集めの数ばかり多いイスラエルの民を導き出すのはモーセ一人では絶対に不可能です。そこには神の決定的力が働きます。
軍隊と民の間に神の御使いが立って、民を守り導きます。(立ち込める黒雲と光) 更に神は、海を二つに分け乾いた地を人々は歩いて渡って行くことが出来ました。エジプトの軍隊が追いつき海に入った時、海の水は元に戻り、軍隊は全滅しました。
 この神の力である霊の働きを信じる時、イエスさまに注がれた霊の働きがいかに人智を超える大きなエネルギーであったかを知らされます。それは不可能を可能とする力です。イエスさまの十字架の死からの復活には、この霊の力が働いています。

◆ 人間の弱さ-人間の強さ(霊が人を根底から造り変える)
イエスさま限界ある人間として生きられました。それは十字架での死が証明しています。イエスを十字架につけた者たちは、「お前が神の子なら、十字架から降りてみよ、自分で自分の命を救ってみよ」とイエスさまを嘲ります。しかし、イエスさまは何も起こさず、自分に与えられた役割を受け入れ、従容と死につかれました。
 ここに、わたしたちは人間の弱さと強さの両面を見ます。弱さとは、人間の命には限りがあるということです。世に不老不死という人はいません。イエスさまもその点では、わたしたちと同じです。では人間の強さとは、どこにあるのでしょうか。イエスさまは、十字架で息を引き取られる前に、十字架につけた者たちに対し、「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」と執り成しの祈りをされました。<ルカ22:34> ここに、神を信じる者の強さを見ます。この土壇場での強さは、まさに霊の励ましと導きによるものではないでしょうか。
 弟子たちはイエスさまの十字架を前にして、身を守るため全員弱さをさらけ出し、逃げ出しました。その弟子たちに霊が注がれた時、彼らはイエスさまと同じく、命を惜しまない宣教者へと根底から新たに造り変えられます。霊が人を強くします。

◆ 聖霊の注ぎを求めよう 
わたしたちは少しのことにも不安や不満を抱く真に弱く、脆い存在です。しかし、聖霊が働く時、神はその弱い素材である人間を、不可能を可能とする力で満たします。ではわたしたちが聖霊を求めるのはどういう時でしょうか。イエスさまは自分のために、聖霊を求めませんでした。それをヒントとして、聖霊を求めましょう。

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