「目からうろこが落ちる」 エレミヤ 1:4-10  使徒言行録 9:1-20 (2014.1.19)

◆ 目からうろこが落ちる
“目からうろこが落ちる”というのは、ちょっとしたことがきっかけで、迷いが吹っ切れ、事柄がよく見えるようになるということを言い表す諺です。この言葉の出所は使徒言行録9:18にあります。今日は、私たちにとって見るべきものを妨げている、落ちるべき“うろこ”とは何かを、共に御言葉から聞いていきましょう。

◆ すべてを捨てたイエスの弟子-漁師(人間をとる)
 イエスさまによる福音宣教は、ガリラヤから始まりました。「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい。」それは、弟子の招きと並行しています。
 ガリラヤ湖には、そこで漁を生業とする漁師がいます。湖畔でイエスさまは四人の漁師たちに遭いました。最初はシモン(ペトロ)とその兄弟アンデレ。イエスは漁をしている彼らに「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と声をかけます。二人はすぐに網を捨てイエスさまに従いました。次に、舟の中で網の手入れをしていたヤコブとその兄弟ヨハネを御覧になり、彼らも同じように招きます。彼らもまた、父ゼベダイを雇い人と一緒に舟に残してイエスさまに従いました。<マルコ1:16-20> 彼らに家業や家族を捨てることに迷いはなかったのでしょうか。
 イエスさまの招きの言葉には、人を動かす力があります。漁師が魚をとるのは自分たちの生活のためですが、その漁師に向かって、人間をとる漁師にしようと呼びかけます。それは、肉(生活)の糧を得るためではなく、人間の魂の糧を得させる者とするためです。イエスさまの招きは、現場で働いている漁師から始まりました。
 彼らは福音宣教に加わるために、すべてを捨ててイエスさまの招きに従います。

◆ 生まれる前から神の弟子-預言者(抜き、・・・植える) 
このイエスさまの招きは、わたしたちに誰のために生きるのかについての究極的二者択一を迫ります。つまり、自分のためか、神のためか。しかし、聖書的観点から見るなら、答えは一つしかありません。すべての創造者である神のためです。
自分のために生きる者は、神の恵みを忘れ貪欲になります。一方、神のために生きようとする者はすべてを捨てられます。神の内に本当に必要なものすべてが備えられていることを知るからです。最初に弟子となった漁師たちは、イエスさまの招きの言葉に神の豊さと権威を感じ取り、一瞬にして進むべき道を歩み始めました。
このガリラヤの漁師たち以上に、エレミヤは神から強烈な招きを受けています。「わたしはあなたを母の胎内に造る前からあなたを知っていた。母の胎から生まれる前に わたしはあなたを聖別し諸国民の預言者として立てた。」<エレミヤ1:5>   
エレミヤは生を受ける前に、既に神から預言者として招かれていました。彼は自分の若さを理由に、この招きを拒否しようとしますが、神は彼の後ろ盾となって守ることを約束します。神は、生まれる前から預言者として選んだエレミヤに、御言葉によって「抜き、壊し、滅ぼし、破壊し、建て、植える」権威を委ねられます。<同:10> 神の招きは人間の思いを超えたところにあり、逆らうことはできません。
  
◆ 迫害者からイエスの弟子-神の力(異邦人に向かう)
このように、人はいろんな形で上からの招きを受けます。その招きに従った者は
以前の生活や生涯のすべてを神に献げる者へと、新しく造り変えられます。
 イエスさまの復活後に、招かれて弟子となった者の一人にパウロという人物がいます。彼は生粋のユダヤ人として、ユダヤ教の学びに精通していました。護教のためにキリストを信じる者を男女の区別なく捕らえる許可を大祭司から得ています。
 彼は “この道”に従う者を捕らえるためにダマスコの町に近づいた時、突然、天からの光に照らされ倒れました。そして「サウル、サウル、なぜ、わたしを迫害するのか」と呼びかける声を聞きます。<使徒9:4> それは、復活されたイエスさまからの声でした。つまり、サウロ(パウロ)は、異邦人や王たち、またイスラエルの子たちにイエスの名による救い(福音)を伝える者となるために、イエスさまからの招きを受けたのです。それは、パウロにとっては全く想定外の出来事でした。
 キリストの迫害者から伝道者へ、百八十度の転換です。彼の目からうろこのようなものが落ち、その後喜びに満ちて、福音宣教者としての道を歩むことになります。

◆ うろこを落とすイエスの業-神の権威(使命を与える)
さて、この“うろこのようなもの”とは、一体何でしょうか。それは、イエスの招きへの妨げとなるものです。では、何がこの招きの妨げとなるのでしょうか。 
人には自分の好みや、日常生活における習慣などがあります。漁師にとって網や舟は生活の基盤です。また家族もあります。しかし、時にはそれらすら、招きを妨げる要因となります。家族が招きの妨げになるというのではありません。イエスさまに従うということは、神の国と神の義を求めることを最優先とするということです。<マタイ6:33> イエスさまは弟子の覚悟として、「鋤に手をかけてから後ろを顧みる者は、神の国にふさわしくない」と言われました。<ルカ9:57-62>
 パウロもまた、この厳しい招きをイエスさまから受けました。キリスト者の迫害に燃えていたパウロは、生粋のユダヤ人・ユダヤ教徒として、厳格なファリサイ派の一員として、熱心な迫害者として、非のうちどころなく生きてきたという誇りに満ちていました。しかし、それら一切、価値あると思えたものが、イエス・キリストとの出会いによって吹っ飛んでしまったのです。<フィリピ2:5-8> イエスさまの内に、人が本質的に求めている最高の宝、つまり命(救い)を見出したからです。

◆ イエスさまの招きに応える生き方をしよう。 (讃美歌368)
わたしたちの内に、抜け出したいと願っている自分の過去の出来事や欲望といったものがないでしょうか。また、何が自分の人生をつまらなくしているのかに気付かないこともあります。しかし、イエスさまからの招きは、一切のしがらみ・妨げからわたしたちを解放します。目のうろこをイエスに取り除いていただきましょう。

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