「神の武具を身に着けよう」 エレミヤ 2:10-13 エフェソ 6:10-20 (2014.3.16)

◆ 命のバランス-厳しい戦い(自然界の掟)
ファイト(戦う)、が今日のテーマです。最近、佐賀県で豚が伝染病でかなり死んだとのニュースがありました。アフリカでは、動物の伝染病というのはないと聞いたことがあります。流行る前に、死んだ(死にそうな)動物は食べられてしまうからです。全体として生態系のバランスは保たれる、厳しい弱肉強食の世界の掟です。

◆ エレミヤの戦い-偶像に頼ることに対して(安易な戦いへの警告)
これは、人間の世界でも同じです。弱い国は強い国に滅ぼされるか、奴隷にされるのが古代世界の厳しい現実でした。だから、どの民族もそれぞれの守り神を立て、生き残るための戦いに明け暮れます。そういう中、イスラエルは当時の諸国の中で最も貧弱な民族でした。それでも神は、この民を愛し、ご自分の宝の民とされました。そして奴隷の地エジプトの国から民を救い出されたのです。<申命記7:6-8>
 その民は、神が先祖に与えると誓った約束の地に入り、民族としての統一国家を建設するに至りました。しかし、程なく国家は南北に分裂します。北はアッシリアに滅ぼされ、南ユダの存続も風前の灯です。バビロンの攻撃がユダの都エルサレムを既に包囲しているからです。その時、南ユダ王国が頼ったのはエジプトでした。
 エルサレムの人々は、自分たちを救った唯一の神ではなく、目に見える偶像にすぎないエジプトに依存して滅び、バビロンに捕囚として連れ去られて行きました。
 エレミヤはエルサレムが犯した過ち・安易な戦いについて、前もって警告しています。「わが民は二つの悪を行った。生ける水の源であるわたしを捨てて 無用の水溜めを掘った。水をためることのできない こわれた水ためを。」<エレミヤ2:13> 

◆ イエスの戦い-聖霊への冒瀆に対して(十字架に至る)
エレミヤは祖国の滅亡とバビロンへの降伏を人々に預言し、祖国の人々からは売国奴と疎まれ、投獄されました。エレミヤの戦いは預言し続けることにあります。
同様に、イエスさまもその権威ある言動故に、人々から疑われ侮られるようになります。身内の者さえ、「あの男は気が変になっている」と聞いて取り押さえに来ました。また、律法学者たちは「あの男は悪霊に取りつかれている」「悪霊の頭の力で悪霊を追い出している」と嘲ります。<マルコ3:21,22> つまり、イエスさまの癒しや悪霊を追い出す力を神の権威と認めず、悪霊の力に拠るものと見做したのです。
 それに対し、イエスさまは悪霊が内輪で争えば立ち行かず滅びる、と敵対する者の矛盾を指摘します。そして神の赦しについて、人間が犯す罪は全て赦されるが、聖霊を冒瀆する者は永遠に赦されることはないと言われました。それはイエスさまに働く霊(聖霊)を、汚れた霊(悪霊)の働きと見做すことです。<同3:28-,30>
 イエスさまは十字架に至るまで、世(人)の無理解と戦われました。それは、人の犯す赦されざる罪を赦すための戦いです。そのために、イエスさまは自らの命を犠牲として献げ、そのことによって、悪の力は滅ぼされ、人の内に救いが訪れました。

◆ 信仰者の戦い-悪を行わせる力に対して(神の武具を取る) 
さて、信仰者が戦う相手は誰でしょうか。エフェソ書ではそれを「わたしたちの戦いは、血肉を相手にするものではなく、支配と権威、暗闇の世界の支配者、天にいる悪の諸霊」と言っています。<6:12> つまり、目に見えるものが相手ではなく、神の御心に適わない悪を人に行わせる力、目に見えない悪魔の策略こそが相手です。
悪魔に対して、人間が知恵や知識をもって対抗することは不可能です。悪霊に対抗してこれを打ち破ることが出来るのは、イエスさまに働いている聖霊の力です。しかし、人間であるわたしたちにそのような悪を打ち破る力が持てるでしょうか。
 このエフェソ書の著者であるパウロは、牢獄の中でこの書を書いています。彼は四六時中、ローマ兵の監視の下に置かれていました。そういう囚われの身の中にあっても福音を語るパウロは、すべてを益とします。ローマ兵の武装した格好は、まさに悪と戦う信仰者の備えにぴったりです。即ち悪と戦うための備えとしての神の武具とは、まず頭には救いの兜、胸には正義の胸当て、腰には真理の帯び、足には平和の福音を告げる履物、そして悪魔の放つ矢を防ぐための信仰の盾、そして、攻撃とも守りともなる霊の剣、即ち神の言葉を持つ、これが信仰者の戦いの備えです。

◆ 戦いのための武器-祈り(神の武具を身に着ける)
 以上、パウロは兵士の武装した姿に例えて、信仰者の悪に対する備えを語りました。これ等の救いの兜・正義の胸当て・真理の帯・福音を告げる履物・信仰の盾・御言葉の剣は、全てが一つとなって働いて大きな力となります。そして、この力を最大限に引出すのが、霊による祈りに他なりません。祈りがなければせっかくの神の武具も持て余す恵みとなってしまうでしょう。(少年ダビデは巨人ゴリアテと戦うために、大人の武装をしましたが、結局、彼はそれら全てを脱ぎ捨て、石投げだけをもって戦った<サムエル記上17章>) 信仰者にとっての唯一の武器は祈りです。
そこでパウロは悪と戦うために、祈りについて改めて三つのことを語ります。一つは、どのような時にも継続して祈ること、また、絶えず目を覚まして熱心に祈ること、そして、全ての人が神の救いに与ることが出来るように祈ることです。
 イエスさまは、「あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。」と宣言されました。<ヨハネ16:33> 生きている限り、わたしたちの内外から戦いが消えることはありません。聖書は、悪との戦いに勝利するために、絶えず祈りをもって神の武具を身に着けるように教えています。

◆ 神の武具(祈り)を身に着けよう
いくら素晴らしいブランド品を身に着けたとしても、それは外面を飾るだけで悪魔を打ち破る力にはなりません。(女であれ、男であれ) しかし、わたしたちは目に見える外見を気にします。それに対し、神の武具は目に見えない魂の装いです。それは一朝一夕には身に着きません。悪への備えとして弛まなく祈り続けましょう。