「あなたがたは聖なる神殿」

2012年1月29日(日) 「あなたがたは聖なる神殿」
聖 書 列王記上8:22~30、Ⅰコリント3:10~17
讃美歌 368(新しい年を迎えて)、137(聖なる主の家で)、475(あめなるよろこび)

 

  • あなたがたは聖なる神殿(新しい神殿)

わたしたちの心は複雑です。他者を祝福する思いと呪う思いが混在しています。どちらも偽らざる“わたし”です。その時々に何が心を支配しているかで表に出てくる態度も違ってきます。もし神の平安に包まれていれば喜びがあり、人間的怒りで一杯であれば苛立ちが覆い尽くすでしょう。今、わたしたちを支配しているのは?

 

  • 神殿-神の臨在する所(魂の拠り所)

神殿(神の宮)とは神が臨在する建物及びその境内を指し、イスラエルにおいては、そこでヤーウェ(主なる神)が礼拝されました。歴史的には、エルサレムの神殿は第一神殿(ソロモン・前950年完成-前586バビロンのネブカドネツァルにより破壊される)、第二神殿(ゼルバベルの神殿・前586年完成-前169年シリアのエピファネスにより荒らされ、前165年マカバイのユダにより回復)、第三神殿(ヘロデの神殿・紀元64年頃完成-70年ローマにより破壊される)が建てられました。

 イスラエルの民にとって、神殿は民族の存在根拠を確かめる絶対的拠り所であり、また魂の拠り所となる目に見える神臨在のしるしでした。ちなみに紀元70年の第三エルサレム神殿崩壊後、神殿に代わって旧約聖書がユダヤ教の中心となりました。

 さて、その民族の魂とでもいうべき神殿建築をイスラエル統一に尽くしたダビデは熱望しました。しかし、ダビデはその生涯の戦いにおいて余りに多くの血を流したが故に神はその神殿建築を許さず、その計画は息子のソロモンに委ねられます。神殿は7年余りの歳月をかけて、ようやく完成に至りました。ソロモンと民の喜びはどれほど大きかったでしょうか。ソロモンは前会衆の前で神に祈りを捧げます。

 

  • ソロモンの祈り-新しい神殿の誕生(教会) 

ソロモンは謙虚に、この神殿を建てさせた神の御名をたたえます。その上で「神は果たして地上にお住まいになるでしょうか。天も、天の天もあなたをお納めすることはできません。わたしの建てたこの神殿など、なおふさわしくありません。」と祈ります。<列王記上8:27> このソロモンの祈りにおいて重要なことは、その謙虚さが民の犯す罪の赦しを祈り求める願いになっていることです。<:30~> 更に、

異国の民の祈りが聞かれることも祈ります。そして、神殿において民が悔い改めて神に立ち返るなら、それを聞き届けてくださるよう、神の憐れみを乞い願います。

しかし、ソロモンのこのような謙遜極まる祈りも長く続きませんでした。ソロモン自身のその後の豪奢な生活はイスラエルの民を苦しめ、ソロモン亡き後、イスラエルは南北に分裂し、また周辺の強国の圧迫を受け、ついに国は失われます。歴史の中で、ローマに破壊された神殿は再建されることなく、現在に至っています。

 そのように、目に見える神殿はイスラエルにおいて失われましたが、しかし、この後、全く新しい神殿が建てられることになりました。それは、目に見えず、どこにも存在し、何を持ってしても破壊されることのない神殿です。それが教会です。

  

  • 教会の土台-イエス・キリスト

教会の土台はイエス・キリストです。土台は建物が建ってしまえば見えなくなります。岩を土台として建てた家は嵐に襲われても倒れることはありません。しかし、砂の上に建てた家は嵐がくればひとたまりもありません。<マタイ7:2427

 このたとえは、イエスさまの言葉を聞いて行う者とそうでない者との生き方の結末を示すものです。大事なのは建物の土台であるイエス・キリストです。人間は弱く脆い存在です。立つも倒れるも、どこに立つかその土台次第です。イエスさまは、不安定な状態のわたしたちが倒れないように、堅固な土台となってくださいました。

 パウロは、このようなイエスさまによる救いの出来事を最初は農業のたとえ、次ぎに建築のたとえでコリントの教会の人たちに語ります。「わたしは植え、アポロは水を注いだ。しかし、成長させてくださったのは神です。」<Ⅰコリント3:6> 「わたしは、神からいただいた恵みによって、熟練した建築家のように土台を据えた。」

<同:10> パウロがここで言っていることは、それぞれの賜物に応じて力を合わせて神のために働くことの大切さです。コリントの教会は、自分は誰につくかということで分派争いをしていたからです。教会が倒れるのは、人間を土台とする時です。

 

  • 三日で建てる神殿-贖いの業

それは、教会を立たせている聖霊の働きを、人間の思惑が締め出しているからです。それはいつの時代でも起こり得ることです。神殿(教会)にも人間の罪は満ちています。人間には、神を出しにしながらも自己満足を求めるところがあります。

イエスさまは、そういう人間の罪をよくご存知でした。ある時、過越祭が近づいたのでエルサレムに上り、そこで神殿の境内の様子を御覧になります。神聖であるべき境内では、神の御名を後ろ盾に商売人たちが、神殿で使う貨幣の両替や犠牲の動物を不当に高くして利益を上げています。それによって、神殿を支配する者たちは私腹を肥やしています。そこでイエスさまは両替台を蹴散らし、動物商たちを追い出しました。いわゆる宮清めです。当然、その行為は権力者たちを怒らせます。

 彼らは、「こんなことをするからには、どんなしるしをわたしたちに見せるつもりか」と詰問します。それに対しイエスさまは「この神殿を壊してみよ。三日で立て直してみせる。」と答えました。<ヨハネ2:19> イエスさまは、十字架で死んで三日目に復活するご自身の救い業を、神殿にたとえて先取り宣言したのです。

 この贖いの業こそ、わたしたちを神に向かって立たせる、不変の堅固な土台です。

 

  • 神殿を聖く保とう

 パウロは、聖なる神殿とはキリストを土台として生きるあなたがたのことである<Ⅰコリント3:17> 、さらに、目に見えるものは過ぎ去るが、見えないものは永遠に存続する<Ⅱコリント4:18>、と言いました。神は目に見える神殿(教会)ではなく、わたしたち自身の内に住まわれます。内なる教会を常に聖く保ちましょう。