「闇の子から光の子へ」 出エジプト 13:17~22, エフェソ 5:6~20 (2012.9/2)

◆ 闇の子から光の子へ(新しい人間)
どんな人も闇の部分と光の部分を持っています。ただ、どちらが表面に出ているかで、その人の評価がされます。しかし、たとえ闇の部分であってもそれを、イエスさまの前に差し出すなら、イエスさまがそれを光へと変えてくださいます。そのエネルギーはイエスさまの十字架より発せられます。その力に限界はありません。

◆ エジプトからの脱出-共におられる神(雲の柱・火の柱)
 天地創造の由来を語る創世記はまず、地上における暗闇から始まります。「神が天地を創造された時、地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた。神は言われた。『光あれ。』こうして、光があった。」<創1:1~3> 
神はこの暗闇に働きかけ、光を創造されました。ここには人間社会における暗闇も象徴的に描かれているのではないでしょうか。イスラエル民族の由来を見るとき、アブラハムを民族の祖とするイスラエルは、ヤコブの子ヨセフがエジプトに売られることに起因して、その地に寄留の民として住み着きます。やがて、数を増した
イスラエルは恐れられ、400年の間、奴隷としての暗闇の時代をすごします。そして、ついにヨセフの骨とともにエジプトの地を出、カナンの地に向かう時が来ます。
 この出エジプトという壮大な脱出劇を、先頭に立って導かれるのは神です。神は奴隷根性の染みついたイスラエルの民が、先に横たわっている苦難にくじけ、エジジプトの地に戻ることのないよう、深い配慮をもって臨みます。民が荒れ野を旅する間、昼は雲の柱、夜は火の柱となって、民と共におられることを示されるのです。
 暗闇の中にあって、人は暗闇を照らす光を求めます。それが神の臨在です。

◆ 罪からの脱出-共におられるイエス(十字架)
 今の世の中は、「民は民に、国は国に敵対して立ち上がり、方々に地震があり、飢饉がおこる。」<マルコ13:8>とあるように、人災や天災がいたるところでおこり、まるで終末の近さを思わせる様子です。暗闇が世を包んでいます。すべての被造物が苦しみの呻きの中にあるという聖書の言葉が当てはまります。<ローマ8:21>
そして、聖書はその根本原因が人間の罪にあることを告げています。それは、創造主なる神を受け入れようとしない、人間の傲慢さにあります。それは今に始まったことではなく、人間の内に潜む闇の世界です。この闇に光を投げ掛けたのがイエス・キリストです。闇を照らす光として神から遣わされたイエスさまは、「わたしは世の光である。」<ヨハネ8:12>と宣言されました。そして闇、即ち罪が支配する世にあって、イエスさまに従う者は「暗闇の中を歩かず、命の光を持つ。」<同>
と言われます。イスラエルを導くに当たって、神は雲の柱・火の柱として昼夜なく、その臨在を示されましたが、イエスさまの臨在は、十字架において明らかです。
 わたしたちは罪の支配からの脱出を求めていますが、自力ではその力がありません。共におられるイエスさまが、わたしたちを罪から導く力となってくださいます。

◆ 闇の子から光の子へ-罪の実・光の実(終末)
さて、聖書はこのイエスさまを知る(信じる)以前の者を闇の子といい、イエスさまに結ばれた者を光の子といいます。イエスさまは「わたしは世の光である」と言われましたが、従う者には「あなたがたは世の光である」<マタイ5:14>と言われます。その者は闇から光の子として、存在自体が他を照らす者と変えられます。
闇から生じるのは、みだらなこと・汚れたこと・貪欲なことであって、それらは実を結ぶことのない虚しい業です。しかし、光からは善意と正義と真実の実が生じます。それこそが、神の御心に適う業です。光の子(聖なる)者としてのわたしたちがなすべきことは、暗闇の業に加わることなく、これを明るみに出すことです。
 光は、正しいものと悪いものを明らかにします。光のもとに晒されるとき、悪の正体は暴露されます。そして、明らかにされたものは、光と変えられていきます。それは、キリストの光は罪を裁く厳粛な力であると共に、癒しの力ともなることを示すものです。キリストの光の中に置かれることによって、わたしたちの罪は明らかにされ、さらに清められます。それは終末を信じて生きる生活において、確かなものとされます。わたしたちは洗礼を受ける際、罪である闇の世界に死んだのです。

◆ キリスト者への勧め-時・賛美・感謝(光の子)
「眠りについている者、起きよ。死者の中から立ち上がれ。そうすれば、キリストはあなたを照らされる。」<エフェソ5:14>という初代教会の賛美において、わたしたちはキリストによって光の子として祝福される生き方を勧められています。
神に喜ばれる生き方を知るのは、キリストの光に照らされることによってです。
では光の子として、具体的にどのような生き方をしたらいいでしょうか。エフェソ書は、愚か者としてではなく、賢い者として細かく気を配って歩むことを勧めます。それは、酒に酔いしれる交わりではなく、霊に満たされる生活の中にあります。
神の創造されたのは良い世界でしたが、悪が入り込んで以来、世は悪に満ちるところとなっています。悪い時代であればこそ、キリスト者は“今”を終末の時としてキリストと共に、一回限りの緊迫した生き方に目覚めた生き方を求められます。
 初代教会に集う信徒たちの生活は賛美に満ちていました。神へのほめ歌は私たちの貪欲や愚かな話や下品な冗談を遠ざけ、生活の徳を高めます。また、何事にも感謝する誠実な生活こそ、イエスさまにあって神の恵み深さに対する応答となります。
 わたしたち自身は光ではありませんが、イエスさまの光を受けて世を照らします。

◆ 実を結ぶ生き方をしよう        
イエスさまに結びつくものは、豊かな実を結びます。イエスさまを離れては、わたしたちは光となることはできません。「霊の結ぶ実は愛です。」と聖書は語ります。<ガラテヤ5:22> わたしたちの信仰生活は実を結ぶことにおいて、豊かさを得ます。欲望を十字架につけ、霊に満たされて、賛美と感謝の生活に与りましょう。