「祝福への約束」 申命記 18:15~22 使徒言行録 3:11~26 (2012.11.18)

◆ 祝福への約束-救いの約束
 11月の始め、カミさんは救急車で記念病院に運ばれ、透析のためのシャント形成の再手術を受けました。終わった後、担当医が出て来られ、「いいシャントが出来ましたよ。」と私に言いました。何と心強い言葉であったことでしょうか。信仰もかく確信をもって証したいものです。「良い方(キリスト・イエス)が来られましたよ。」

◆ イエスの名-神殿での癒し(男を立ち上がらせる)
 ペンテコステの日(五旬祭)、聖霊の注ぎを受けた弟子たちは、ペトロを中心に大胆にキリストを宣べ伝え、また、使徒たちによって多くの不思議な業が行われました。そして、財産を共有する新たな信仰共同体が形成され、必要に応じてそれらを分け合い、心を一つにして神殿に参り、家ごとに集まってパン裂きや食事をし、神を賛美していたので、救われる者が日々起こされていました。<使徒2:43~47>
 ペトロとヨハネが午後三時の祈りの時に神殿に上ると、門の傍らに生まれつき足の不自由な男が運ばれて来ました。彼はそこで、参詣のために境内に入る人々から施しを受けていたのです。ペトロとヨハネは彼に目を留め、男は何かくれるのかと思って二人を見返しました。そこで、ペトロは「わたしには金や銀はないが、持っているものをあげよう。ナザレの人イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい。」と命じました。そして、男の右手を取って立ち上がらせると、その男の足はしっかりとし、立って躍り上がって歩き回り、神を賛美し、二人と一緒に境内に入りました。イエスの名が男に癒しの奇跡を起こしたのです。<同3:1~10>
 この出来事を見た人々は、その男に気づいて、我を忘れるほどに驚きました。

◆ 赦し-ペトロの説教(無知から来る罪)
ペトロとヨハネとこの男の三人のところへ人々が集まって来ます。そこでペトロは、今、ここで起こった癒しは、自分たちの力ではなくイエスの名によるものであると人々に語り始めました。ペンテコステの日以来、ペトロの二回目の説教です。
 その内容は、十字架で死んだイエス・キリストがどういう方であるかということと、今こそ人々が悔い改めて神に立ち帰るようにという勧めです。<同3:12~26>
 男の真の癒し主キリストは、先祖アブラハム・イサク・ヤコブのように神からの栄光を受けています。ピラト(ローマ総督)は、この聖なる正しい方を釈放しようとしましたが、人々はそれを拒み、キリストを殺して(十字架につける)、代わりに人殺しを赦すよう要求しました。しかし、死んだイエスさまを神は復活させられます。弟子たちはそのことの証人です。教会は、その証言の上に立っています。この男が皆の前で完全に癒されたのは、弟子たちのイエスの名を信じる信仰によります。 
では、人々がイエスさまを殺したのは何故でしょうか。それは指導者から民衆に至るまですべての人々が無知であったからだ、とペトロは言います。<同3:17>
無知は罪を孕んでいます。悔い改めて神に立ち帰る他、罪の赦しはありません。

◆ メシア到来-旧約預言成就の時(慰めの時)
 神に立ち帰るならどんな罪も赦される、それが神の赦しです。しかし、そのために神がどれほどの痛みと犠牲を払っているかをわたしたちは知る必要があります。そうでないと、わたしたちはその無知ゆえに、繰り返し神を殺すことになります。
 旧約において、神からイスラエルの民を率いることを委ねられたモーセは、民に「神は同胞の中から、わたしのような預言者を立てられる。あなたたちは彼に聴き従わねばならない。」と語ります。<申18:15> このモーセの預言は新約におけるイエス・キリストを指しています。その預言からどれだけの時が過ぎたでしょうか。
 神から離れ罪を繰り返す民に対し、多くの預言者が神に立ち帰るよう警告を発しました。特に北イスラエルの滅亡を予告するアモスという預言者は、「その時が来れば、御言葉の飢饉が来る」と警告しています。<アモス8:9~12> 神の言葉を旧約において最後に記すのはマラキ書ですが、キリストが世に現れるまで、それから400年を費やしています。この間、人々はひたすらメシア到来の時を待望しました。
 弟子たちへの聖霊の注ぎによる癒しの業が、まさに慰めの時、メシア到来のしるしを現しています。ペトロは確信をもって人々に旧約預言の成就の時を語ります。

◆ 祝福に与る-キリストを受け入れる(神の契約に与る)
 神からの祝福、つまり救いの恵みを受け取るか否かは、十字架で死んで復活したキリストを受け入れるかどうかにかかっています。信じて受け入れる者は神からの契約(救い)に与りますが、これを拒む者に祝福はありません。キリストを信じるか拒否するか、その決断が人生における神からの祝福の有無の分かれ目となります。
 確かに、キリストを知らなくても祝福された人は存在し、逆にキリストを受け入れていても祝福から遠いように見える人もいます。しかし、わたしたちが願う祝福は、地上の祝福から天上での祝福を貫く恵みです。キリストが復活して神の御座にあるように、わたしたちもその復活に与り永遠の命への約束を頂くこと、それこそが真の祝福です。それは、この世での祝福を超えて神と共にある絶対的な恵みです。
 この祝福に与らせるために、イエスさまは十字架につかれました。それは「あながた一人一人を悪から離れさせる」ためです。<使徒3:26> キリストを受け入れるということは、わたしの内にあるキリストへの無関心、敵対心といった罪を悔い改めることを意味します。それは、生活の中にキリストを迎え入れ、共に生きるということです。そのような信仰生活を通して、わたしたちは神の祝福に与ります。

◆ 今こそ決断の時       
 キリストに生きるという決断を先送りにしていると、やがてキリストの霊が遠のいていきます。それは信仰を持っている人にもいえることです。日々の悔い改めは
信仰の有無に関わらず必要です。救いの約束に与るために、日々“今日、わたしはイエスさまと共に歩みます。”との決断を、確信をもって宣言していきましょう。