「祝福に満たされる方」 創世記 13:14~18 ガラテヤ 3:1~14(2012.11.11)

◆ 祝福に満たされる者-二者選択(人間の側の選び)
“雀のお宿”というおとぎ話で、舌を切られた雀を助けたおじいさんは、雀のお宿でお礼に小さい葛篭と大きい葛篭を出され小さい方を受け取りました。中には宝物が入っていました。欲張りなおじいさんは大きい方を持ち帰り、中を開けたところがお化けが出てきて散々な目に遭いましたとさ。ではアブラハムと甥のロトは?

◆ アブラハムの子-信仰によって生きる人々(義とされる者)
甥のロトと共に旅をしていたアブラムは、互いの家畜が増えて争いが生じるようになったため、別れることにしました。アブラムはロトに先に土地を選ばせます。「あなたが左に行くならわたしは右に、右に行くならわたしは左に。」<創13:9>
 そこでロトは、よく潤っているヨルダン川流域の低地一帯(ソドム)を選んで移って行きました。しかし、その地はゴモラの町同様、神に罪を犯す邪悪な住民がすんでいました。やがて神はこのソドムとゴモラをその罪故に滅ぼすことになります。
 一方、アブラムはロトとは反対のカナンの地へ向かいます。その時、神はアブラムに「あなたのいる場所から東西南北を見よ。見えるかぎりの土地をすべて、わたしは永久にあなたとあなたの子孫に与える。」と約束されました。<創13:14~17>
 見た目に良い地を選んだロトに待っていたのは滅びです。それは、人間的な価値観による選択の結果です。しかし、アブラムは自分の思いではなく、すべてを神に委ねました。アブラムの生涯において、進むべき道の選択の基準は常に神にありましす。「アブラムは主を信じた。主はそれを彼の義と認められた。」<創15:6> とあるように、アブラムの信仰を神は認められました。そこに神の祝福があります。

◆ パウロの怒り-信仰からの逸脱(律法への逆戻り)
このように、聖書が語る救いは神中心です。人間のなすべきことは、御言葉への聴従のみです。ガラテヤの教会は、パウロによってキリストの福音の種が蒔かれて出来た教会でした。その教会の土台はキリストの十字架の言葉と復活です。人々はキリストへの信仰によって以前の生活を悔い改め、新しい生活を始めたのでした。
 しかし、間もなくこの教会に律法主義が入り込んできます。それは、救いは律法を守り行うことによって得られるという教えです。それでは救いは神の業ではなく、人間の行いが中心となってしまいます。それはパウロの福音を否定する教えです。
 パウロの怒りは突然爆発します。「ああ、物分りの悪いガラテヤの人たち、だれがあなたがたを惑わしたのか。目の前に、イエス・キリストが十字架につけられた姿ではっきり示されたではないか。」<ガラテヤ3:1> パウロが伝えた福音の恵みは、キリストの霊を受けての“新生”にあります。十字架は呪いのしるしですが、イエスさまは自ら呪われる者となることによって、人々を律法の鎖から解き放ったはずでした。人は律法によっては罪を自覚するだけで、救われることはないからです。
 律法主義に陥ることは信仰からの逸脱です。これをパウロは厳しく非難します。

◆ 洗礼者ヨハネの指し示す方-呪いを祝福に変える(十字架の贖い)
 罪に死んで新しく生まれ変わるしるしが洗礼です。それは、十字架で死に、復活されたイエス・キリストの新生に与ることです。受洗により、人はキリストの霊を受けます。それにより、人は律法の目指す神との交わりを回復します。それが義とされる(救われる)ということであり、神の子とされることです。それは、信仰によって義とされたアブラハムの信仰を受け継ぐ者とされることでもあります。
 ユダヤの荒れ野で悔い改めを宣べ伝えていたヨハネの下に、ユダヤ全土から救いを求める人々が押し寄せ、彼からヨルダン川で洗礼を受けました。しかし、ヨハネは、彼の後から現れるキリストを指し示します。<マタイ3:11> この方こそ神の義(救い)をもたらす方、真の救い主であると。ヨハネは悔い改めに導く水による洗礼を授けましたが、キリストは御自身の霊と火(罪を滅ぼす力)による洗礼を授けられます。それは完全な罪の赦しである、神の祝福に与ることを意味します。
 ここに救いに関するキリスト教の最大の逆説があります。律法の呪いである十字架において、イエスさまは十字架を祝福のしるしへと大逆転させたからです。迫害する者のために祈られたイエス<ルカ23:34>さまにこそ、祝福の根源があります。

◆ 神の約束-信仰による救い(仲介を必要とせず)
旧約聖書において、最初に神の祝福を受けた人物はアブラハムです。アブラハムの時代、神の戒めであり定めである律法はまだ存在しませんでした。ですから、アブラハムが祝福を受けたのは、律法を守ったからではなく、神の声に聴き従ったからです。その信仰に拠り、神はアブラハムに「見えるかぎりの土地をすべて、わたしは永久にあなたとあなたの子孫に与える。」と約束されたのでした。<創13:15> ではこの箇所で神の言われた、あなたの子孫とは誰を指しているのでしょうか。
 パウロは、これをキリストとキリストを信じる者であると言います。神と人との間に律法は存在しません。つまり、律法の仲介なしに、ただキリストへの信仰により、人は霊を受け、救いに与るということを神はキリストを通して約束されました。
 信仰はキリストの霊を受けること(洗礼)によって始まります。それをなぜ律法(肉)によって仕上げようとするのか、とパウロは問います。<ガラテヤ3:3> それは、信仰は神の恩恵によって賜るものであることを忘れ、自分の功績で得られるかのように捉えているからです。そこに人間の陥りやすい罪の過ちがあります。
 わたしたちがアブラハムの子孫として選ばれたのは、キリストの贖いに拠ります。

◆ 選びの民として生きよう        
イエスさまは、律法学者に対して「わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」<マルコ2:17> と言われました。この言葉の内に、イエスさまの選びの基準があります。自らの欠けを自覚する時、イエスさまはその欠けを祝福で満たしてくださいます。選ばれた者として、信仰の道を歩みましょう。