◆ 初めであり、終わりである方
マクロの世界(宇宙)は限りなく広がり、その果てを人は知りません。一方、ミクロの世界(細胞)も無限であってその究極の姿を人は見ることは出来ません。その両世界の中を、わたしたちは奇跡的に生かされています。この無きに等しい者の命を司り、すべてを知っておられる方が、“初めであり、終わりである”神です。
◆ 時を定める方-神への畏れ(コヘレトにおける人生観)
聖書はすべてのことにおいて、“時”があることを教えています。「何事にも時があり 天の下の出来事にはすべて定められた時がある。生まれる時、死ぬ時 植える時、飢えたものを抜く時 殺す時、癒す時 破壊する時、建てる時・・・愛する時、憎む時 戦いの時、平和の時。」<コヘレト3:1~8> そしてコヘレトの作者はこれらすべての時を観察した結果、次のような結論を得ました。「神はすべてを時宜にかなうように造り、また永遠を思う心を人に与えられる。それでもなお、神のなさる業を始めから終わりまで見極めることは許されない。」<同:11> そしてつぶやきます。「正義を行う人も悪人も神は裁かれる。すべての出来事、すべての行為には、定められた時がある。」<同:17> さらに「・・人間は動物に何らまさるところはない。すべては空しく、すべてはひとつのところに行く。すべては塵から成った。すべては塵に返る。・・死後どうなるかを、誰が見せてくれよう。」<同:19~22>
要するにコヘレト(集会で語る者・無名の知者)は、知恵も快楽も富もすべては空しい、単調な繰り返しにすぎない。この不条理の世の中で得た究極の結論は、「神を畏れ、その戒めを守ること、これこそが人間のすべて。」でした。<同12:13>
◆ 死から始まる新しい展開-第二の生か第二の死か
このように、わたしたちは「初めから終わりまでを見極める」ことはできません。“私はどこから来て、どこへ行くのか。” 永遠の時の流れの中で、わたしたちは許された一時を、世(神の造られた地)で過ごし、そして永遠の彼方に没します。
しかしそれがすべてであるなら、生きていることは何と空しいことでしょうか。
聖書の語る救いは、この空しさの中にあって、人間に喜びを見出させるところにあります。その救いとは、人間(わたしを含めた)を造られた神を“知る”ことにあります。しかし、この神もまた、人間が見極めることの出来ない方です。それは人間の存在の以前にも以後にもおられる方、つまり「アルファであり、オメガである方、初めであり、終わりである方」それが神だからです。<黙示録21:6>
肉体をもって命を得て世に送り出された人間は、いずれ世を去る時が来ます。聖書が問題にするのは、この時、人が死を迎える時です。それは第一の死、肉体の終わりの時です。しかし、それですべてが終わるわけではありません。聖書はそこからの人間の“第二ステージ”について語ります。それは死から、第二の新たな命(永遠の命)に入るか、第二の死(永遠の滅び、霊的死)に向かうか、です。<同:8>
◆ 事の成就-命の終わりが命の始め
ここにキリスト者(信仰者)の命への見方(関わり方)があります。コヘレトは“どうせ死んで終わる空しい人生なら、命ある間はおもしろおかしく過ごすそうではではないか。”と語ります。しかし一方では、神を知る知恵の大切をも語ります。
わたしたちにとっての救いは、この世にあって、神を知ることから始まります。初めであり、終わりである神は、その見えざる姿を御子イエス・キリストにおいて現されました。そして、わたしたちにとって最も大切なことは、イエスさまのご降誕ではなく、最期の十字架を知ることにあります。なぜなら、イエスさまの誕生はすでに神の子としての死の様を含んでいるからです。「この子は、イスラエルの多くの人を倒したり立ち上がらせたりするためにと定められ、また反対のしるしとして定められています。」<ルカ2:34> それは、赤子イエスさまへの十字架予言です。
実際、イエスさまは十字架にかけられますが、その際「成し遂げられた(事は成就した)」と言って息を引き取られました。世の人はそれですべてが終わったと思いました。しかし、そこからが神の真の業の始まりです。つまり、死んだイエスを神は甦らせました。復活の命の始まりです。この復活こそ、永遠の命の始まりです。
◆ 救い-神(キリスト)が人と共に住み、共にいてくださる
このイエスさまの復活を信じて生きるなら、その者もまた第一の死(肉の死)より復活の命に与り、神の座におられるイエスさまと共に第二の命(永遠の命)に入れられるのだと聖書は約束しています。それは、玉座に座っておられ「わたしは初めであり、終わりである」と宣言される方、つまりイエス・キリストから「乾いている者には、命の水の泉から価なしに飲ませよう」との命の恵みを受けるからです。<黙示録21:6> つまり、命を求めて生きる者には、復活のイエスさまから尽きることのない霊の命が注がれるということです。それはこの世における命が、途切れることなく永遠の命につながることを意味するものです。それが信仰者の救いです。
旧約の預言者イザヤは、堕落したイスラエルを贖う(救い出す)神御自身の、「わたしは初めであり、終わりである。わたしをおいて神はない。」との宣言の言葉を書き記しています。<イザヤ44:6> この万軍の主である神が、人となられたのが主イエス・キリストです。この方が人と共に住み、共にいてくださる<同:3>ことがわたしたちにとっての真の救いです。それは地上にある者の天上における確かな希望です。このように信仰者とは、生死を超えて、主と共に生かされている者です。
◆ 偶像ではなく、真の神の下に生きよう
「目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない。最初のものは過ぎ去ったからである。」<同4> 偶像(人間が作った神)は人を不安と絶望へと駆り立てるだけですが、真の神には慰めがあります。キリストと共に初めであり、終わりである神に信頼する生涯を全うしましょう。