◆ 神の知恵と力(創造)
神のメッセージを語る者にとって、毎週、説教には事欠かない事件が起こります。
今週は尼崎大量怪死事件(週刊文春記事表題)です。余りに強烈なのでついコンビニで斜め読みしました。そこには、人間の中に巣食う恐るべき罪の姿があります。しかし聖書は、真に恐るべき者は誰か、とわたしたちにいつも問いかけています。
◆ 知恵-神によって与えられる賜物(イエス・キリスト)
箴言8:35に「わたしを見出す者は命を見出し 主に喜び迎えていただくことができる」とあります。箴言の1~9章では、度々「わたし」という言葉が出て来ます。このわたしとは誰のことを指しているのでしょうか。これが今日の中心テーマです。
それは、知恵(ホクマ)を擬人化した言い方です。知恵とは観察や経験、反省などによって得られる知識や感覚をいいます。旧約聖書では、神への信仰と服従を知恵の中心とし、「主を畏れることは知恵の初め」<箴言1:7>と教えています。知恵は、神によって与えられる賜物です。そしてこの知恵は天地創造に必要な力として、神の創造に協力するものとして語られます。「わたし」とは知恵のことを指します。
新約聖書においての知恵(ソフィア)は、主イエスの言葉に現されています。イエスさまはイスラエルの知恵の伝統を受け継ぎながら、たとえ等によって神の知恵の深い真理(奥義)を伝えました。パウロはキリストこそが「神の知恵」であると語ります。<Ⅰコリント1:28> 知恵と知識の宝はすべて、キリストのうちに隠されており<コロサイ2:3>、言葉は神と共にあった<ヨハネ1:1>とあるように、主イエスの言葉は神の知恵を現すと共に、主そのものが知恵であるともいえます。
◆ 創造-神の栄光と威光を写す人間(賛美)
さて、創世記はその1章で天地創造の由来を語ります。それは「見よ、それは極めて良かった。」<創世記1:31>とあるように、祝福に満ちた世界でした。神による創造物の中で、最後に造られたのが人間です。神は人間を「御自分にかたどって(似せて)創造され」ました。そして神は御自分の栄光を担う者として、人間を神に代わって被造物を支配する(治める)ものとしました。<創世記1:26~28>
それは何と恐れ多いことでしょうか。それゆえ詩編は「あなたが御心に留めてくださるとは 人間は何ものなのでしょう。人の子は何ものなのでしょう あなたが顧みてくださるとは。神に僅かに劣るものとして人を造り なお、栄光と威光を冠としていただかせ 御手によって造られたものすべてを治めるように その足もとに置かれました。」と、神の指による万物創造の業を讃えて歌っています。<詩編8:5~7>
では、人間はこの詩が歌っているように、常に神を畏れ、ひれ伏す生活を送っているでしょうか。残念なことに、神の栄光を汚すことが絶対的に多いというのが人間の現実です。「善を行う者はいない。一人もいない。」<詩53:2> とある通りです。では人間には、神の創造の初めの祝福に戻れる可能性はあるのでしょうか。
◆ 恐怖-魂も体も滅ぼす神
答えは“然り”です。ただし、人間には自力で神から離れた罪の世界から脱することは不可能です。不可能を可能とするのは、神御自身の知恵と力によります。
人間が原初の神の栄光を取り戻すのに必要なのは、恐るべきものを恐れるという姿勢です。<マタイ10:28> これはイエスさまが宣教のために選んだ12弟子たちに対して、派遣する世における迫害の予告の中で語ったことです。派遣は狼の群れに羊を送り込むようなものです。<同:16> キリストの福音伝道者を世は憎み、捕え、鞭打ち、世の権力者の前に引き出します。その時、言うべきことを教えるのは父なる神の霊です。そのことよって、キリストの福音が証しされることになります。
宣教に当たって、弟子たちに求められるのは最後まで耐え忍ぶことです。そのためには「体は殺しても、魂を殺すことのできない者ども(人々)を恐れない」という知恵が必要です。人を恐れると、人は体だけではなく心(魂)まで支配されてしまいます。そこにマインドコントロールの怖さがあります。しかし、その恐怖は絶対的なものではありません。本当に恐れるべきは、被造物すべてを知っておられる神です。この方こそ、体も魂も絶対的に滅ぼし尽くす(裁く)力のある方です。
◆ 祝福-キリストへの聴従
聖書の世界観は、この世界は終末に向かっているという理解にあります。神の造られた世界には終わりがあるということです。この世には戦争や災害、偽預言者の出現など、古来至る所でその兆候があります。これを何の救いもない未来の成り行きとしてだけで見るなら、恐怖があるのみです。人間には希望も祝福もありません。
しかし、確かな救いがあります。それはイエス・キリストを「わたしの仲間である」と証しすることです。<マタイ10:32> キリストに聴き従うことによって、その者はキリストからの執り成しを受けます。つまり、終末において救いが約束されているのです。それは、救い(祝福)の完成の時です。では現在、人間の力(サタン)が支配する恐れの中に生きている者にも、確かな救いはあるのでしょうか。
そのために必要なことが、恐るべきものを恐れるという知恵です。それは、神の「知恵であるキリスト」を知ることです。キリストを信じキリストと共にある者は、既に永遠の命に与っています。キリストは既に世に勝っているからです。<ヨハネ16:33> キリストを知ることは祝福の初めであり、終わりであると聖書は告げています。<黙示録21:6> キリストこそが真の世の支配者であり、恐るべき方です。
◆ 福音の恵みを受け入れよう
「すべてのものは、神から出て、神によって保たれ、神に向かっています。」<ローマ11:36> しかし、 神の知恵と力をわたしたちは理解し尽くすことは出来ません。ただ十字架において、神の裁きの真実を知るのみです。それは人間の罪の赦しのために、神が自らを裁いたという事実です。この福音の恵みを受け入れましょう。