「本国は天にあり」 エレミヤ 29:1,4~14 フィリピ 3:7~21(2012.10.21)

◆ 本国(国籍)は天にあり(天国に市民権をもつ者)
 アダムとイヴは罪ゆえに神の臨在する楽園を追われました。しかし、神は外の厳しい環境を生きるために彼らに皮の衣をきせます。この皮の衣が人間を守ります。それは神の御子キリストの犠牲による救いを意味します。キリストと結びつくことで、人は本来属することを許されていた、神(天)の楽園に帰ることができます。

◆ 救いの転機-失うことは得ること
人は誰でも自分自身の平安・救いを求めています。パウロはユダヤ教社会の中に生まれ、ユダヤ教を絶対的教えと信じる熱心なユダヤ教徒として成長しました。しかし、彼の宗教観は復活のキリストとの遭遇によって、根本から覆されます。パウロの内に起こった一大変化は、救いは律法遵守によってではなく、ただ神の恩恵、つまりキリストの十字架を受け入れることのみによって得られるという事実でした。
 かつてパウロが救いに至る条件として誇りとしていたのは、生まれながらのもの(八日目に割礼を受けたこと、イスラエルの民に属すること、名門ベニヤミン族出身、生粋のヘブライ人)と、自覚と努力で身に着けた生き様(律法を厳格に守るファリサイ派、その熱心さをもって教会を迫害、忠実さにおいて申し分なし)です。
 しかし、イエス・キリストを知るという体験によって、それらの誇りはすっかり色褪せ、価値観が一変させられたのです。パウロはキリストを得ることによって、すべてを失いました。それは、すべてを失って損をしても、キリストを得て儲けたということです。逆にいうと、キリストを得ることは一切を失うことを意味します。
 パウロにとってキリストを得たことは、全てに勝る唯一の誇りとなりました。

◆ パウロの望み-キリストの復活に与ること
パウロがキリストとの交わりを通して知ったのは、義(神との正しい関係の在り方、救い)は律法を守ることによって得られるのではなく、神からの無償の恵みとして与えられるもの、ただキリストへの信仰よるものであるということでした。
キリストを知るということは、キリストの苦しみ(十字架)に与ることです。それは単に知識として知ることでも、追体験することでもありません。では、わたしたちはキリストをどのようにして知るのでしょうか。そこに洗礼の意味があります。
 洗礼はキリストと共に死ぬ(苦しみに与る)ことを意味します。そして、その死から復活することにおいて新たな命に与ります。それが復活です。洗礼を受けることによってキリストと結ばれる、そこに救いに与る者の限りない喜びがあります。
 パウロの望みは、このキリストの復活に与ることにありました。キリストを知った者としてすでに新たな命に生き始めたパウロですが、まだその救いは完成していません。それが完全に満たされるのは、キリストの復活の中に自分が生き始めたときです。それゆえ、パウロは「キリストとその復活の力を知り、その苦しみに与って、・・・何とかして死者の中からの復活に達したい」との希望を語ります。

◆ キリスト者の目標-天から来る復活のキリストを待ち望むこと
 パウロがこのように復活を追い求めていると語るのは、フイリピの教会にすでに自分は救いを得ている(完成している)と誇る者がいたからです。しかしキリスト者にとっての救いの完成は、キリストの再臨の時(終末)です。それまでキリストから目をそらすことはできません。キリスト者といえども救いは途上にあります。
 それゆえ、わたしたちがキリストを、義(救い)を、復活を得たいと望むなら、明確な目標を定め、アスリートのように全力疾走で前進する必要があります。では、その目標とは何でしょうか。それは、到着点で授けられる霊、キリストの霊です。
キリストに捕えられた者は、神から上へと召された者です。だから、キリスト者はその招きに応じて走り続け、神の備えの賞を追い求めよ、とパウロは勧めています。
 そのように、正しい道を走っている信仰者の行き着くところ、即ち本国は(国籍)は天にあります。キリストの十字架に敵対する者は、おのが腹を神とします(十字架以外のものを神とする)。しかし天を目標とする人は、人を救う力のない虚しい事柄、つまり十字架以外のものを救いの源とはしません。信仰者は目標とし、一貫して待ち望むのは、天から救い主として来られる復活のイエス・キリストです。

◆ キリストの救い-キリストの栄光に与ること
 パウロの確信は、キリストの十字架以外に救いはないということであり、この救いを大いなる期待を持って待つと語ります。キリストは万物を支配下に置く力があり、その力によって、わたしたちの体を御自分の栄光ある体と同じ体に変えてくださいます。いずれ消滅する卑しい体を不滅の体(復活体)にしてくださるのです。
 イエスさまは地上を去るにあたって、弟子たちの共同体が、この世と分離し、真に神のものとなること(聖なるものとなる)を祈られました。(大祭司の祈り・ヨハネ17章)それは、御自分の栄光を弟子たちに分け与えることを意味します。救いの実現は、父(神)と子(キリスト)と弟子たちの共同体(教会)が一つになるところにあります。その一致はキリストの復活の力、即ち霊の働きによるものです。
 この霊において救いは既にもたらされており、未来(キリストの再臨)において完成します。それゆえ、弟子たち(キリスト者)が究極的に追い求めいくべきものはこのキリストの霊です。キリストのいるところ、そこに目指す本国があります。
 詩編34:23 は「主はその僕の魂を贖い、主を避けどころとする人を罪に定めない。」と、神に従う者の救いを歌います。栄光は父と子と信じる者の上にあります。

◆ 本国を目指して生きよう        
エレミヤはバビロンに捕囚として連れ去られたイスラエルの民に、その地で家を建てて住み・・妻をめとり・・その町の平安を祈れと書き送りました。その地を仮の本国として生きよということです。どこにあっても神に従うなら、そこが本国となります。各自置かれた地において、主イエスと共に真の本国を待ち望みましょう。