「神の友と呼ばれた人」 創世記 15:1-7 ヤコブ 2:14-26 (2013.11.10)

◆ 神の友と呼ばれた人(アブラハム)
誰でも人から賞賛されている人(社会的・経済的・活動的有名人)を友に持つと、自分もそのような者となったような気がします。人間でさえそうであるなら、神の友と呼ばれる人はどうでしょうか。これ以上の名誉なことはありません。しかし、イエスさまは人間の不名誉を負うて、今も罪人の友となってくださっています。

◆ 信仰と行いの関係-信仰義認
 人が救われるために必要なのは、信仰でしょうか、それとも行いでしょうか。
宗教改革者ルターは、パウロが引用した旧約預言の「神に従う人は信仰によって生きる。」<ハバクク2:4>という言葉を引用し(「正しい者は信仰によって生きる」<ローマ1:17>)、人は信仰によってのみ救われるという信仰義認を説きます。
 一方、ヤコブ書は、人は信仰を伴う行いによって救われると説いています。行いが伴わない信仰は、「魂のない肉体が死んだもの」であるように、死んだも同然というのです。<2:26> これは一見すると行いを重視しているように聞こえます。それゆえルターは、このヤコブ書を“わらの書簡”と見做しています。つまり、ヤコブ書は、救いに関して間違ったことを教えている屑のような書簡だというのです。
 しかし、そうではありません。ヤコブ書は信仰と行いを対立関係において見るのではなく、正しい信仰によって正しい行いが導き出される、あるいは信仰を完成させるのはその行いによると説いているのです。信仰と行いは別物ではなく一つです。
 行いを伴わない信仰というのは、本来あり得ない信仰です。信仰は抽象的な事柄ではなく、具体性を伴うものだからです。その具体性こそが“行い”という面です。

◆ 信仰の完成-神を畏れる行い 
ヤコブ書に、信仰は行いと共に働き、その信仰は行いによって完成されるとあるように<2:22>、確かに、信仰を持つということ自体が行いそのものといえます。
 その完成に至る信仰について、ヤコブ書はアブラハムの信仰について語ります。
神はアブラハムに、彼の子孫を星のようにふやすと約束されました。しかし、すでに高齢のアブラハムには実子はありません。跡継ぎとなる子もいない彼にとって神の約束は非現実的な約束です。しかし、アブラハムは神の言葉を信じて受け入れました。これを神は彼の義(神の目に正しい者)と認められました。<創世記15:6>
 ここに信仰義認の芽生えがあります。不可能を可能とする神は、時が来てアブラハムにイサクという子をお授けました。しかし、その信仰が厳しく試される時が来ます。神は彼にその子を犠牲として献げるよう命じられたのです。アブラハムは神の言葉に従い、独り子を献げるために山に登り、まさに我が子を屠ろうとした時、神はこれを止め、彼が真実神を畏れる者であることを認めました。<同2212>
このように、アブラハムの信仰は神の言葉を信じるところにあり、その信仰は具体的な行動となって表れます。その行いは信仰と一致しています。(信仰の完成)
 
◆ 神の友となる-神を優先する愛
人は信仰によってのみ義とされる、つまり救われるというのが聖書のメッセージです。神に聴き従う信仰が真実ならば、その信仰は信仰と一致した行いとなって表れます。アブラハムはその生涯において、行いを伴う信仰により「神の友」と呼ばれるようになったと聖書は告げています。<歴代誌下20:7、イザヤ41:8>
 ある人を友と呼ぶということは、その人とパートナーとなるということです。それは相互信頼において成り立つ関係です。「神は御自分にかたどって人を創造された」とあります。<創世記1:27> 人間は本来、神の祝福を受けて造られた存在です。神はアブラハムにおいて友と呼ぶべき人間を見出し、彼を深く愛されました。
 イエスさまも十字架について世を去る前に、弟子たちに対し「わたしはあなたがたを友と呼ぶ」と言われました。<ヨハネ15:15> ただしそれは、弟子がイエスさまの命ずることを行う限りにおいてです。では、イエスさまが命じられたこと(掟)とは何でしょうか。それは「互いに愛し合う」という相互愛です。<同:12,17>
 アブラハムは息子イサクを愛する以上に、神への愛を優先しました。人は神を愛することにおいて、イエスさまのように友のために命を捨てる者へと変えられます。
  
◆ 信仰から生まれる行い-服従
 神への信仰に生きる者は、アブラハムの子孫、あるいは神に選ばれたヤコブの子らと呼ばれます。<詩105:6> 神の成し遂げられた驚くべき御業と奇跡、また神の口からでる裁きの言葉に心を留め、常に御顔を求める者だからです。<同:4,5>
 キリスト者にとっての神への信仰は、具体的にアブラハムの系図に連なるイエス・キリストに向けられています。<マタイ1:16> そして神の驚くべき御業と奇跡であるキリストの十字架に心を留めています。かつて神は、400年間エジプトで寄留者となり奴隷とされて苦しみの中にあった神の子イスラエルの民を、新しい地へと導き出されました。<創世記15:14> そのようにキリストの十字架には、罪の中にあって暗闇に閉ざされた生活をしている者を、神の義へと引き上げる力があります。神の義とは、十字架において罪清められた新しい神の国ということです。
 奴隷が自由を得るには神の力が必要であったように、罪から解放されるためにはキリストの力が必要です。そのキリストの力の源は十字架の死に至るまでの神への従順にあります。<フィリピ2:8> このキリストへの信仰により、服従という行いが自然と表れ出てきます。それは、屈辱ではなく絶対的信頼を基とした行為です。

◆ 私たちに出来る行い 
イエスさまは罪人の友となってくださったと最初に言いました。それは、私たちの友となってくださったということです。そのイエスさまの行為(十字架の執り成し)によって、私は神の友と呼ばれるのです。この祝福に対して、私たちはイエスさまを救い主と信じる信仰を、生涯、あらゆる行いにおいて持ち続けましょう。